さまよう
あたしは昔からこのベッドで寝ていた
白い壁の白いシーツ白いパジャマに白い部屋
でも今日は気分が良い。だから起きてみようかと思って起きた
歩いてみようかと思ったら歩けた。
部屋から出て廊下に出る。廊下には誰もいなかった。少し歩くとナースセンターがあった
見覚えのある看護師さんたちがいたが、全員がつくえの上でうたたねしていた
だからあたしは外に出ることができた
外へ出たとたん、風を感じた。ああ、外
何年ぶりに外へ出た。あたしはうきうきとした
せっかくたから野の花を見に行こうと決めた
そうよ、野の花。私の思い出の野の花よ
見渡す草原に咲き誇るあの野の花よ
ところが外に出るとすぐに繁華街に出てしまった
繁華街だから他人でいっぱい。あたしはあんまりうれしくない
あたしは野に咲く野の花が見たいんだ
ああ、あの花
やさしいふわふわのピンクの花。ほんとに白かと思うぐらいうすいピンク色の花
なんていう名前だっけ。花弁が少し厚めで少しちぢれていて少し甘いにおいがして
葉っぱは細めでみどり色
はなやかでいて、それでいてひかえめな
見るだけで心が落ち着いてなごむ花
そんな花なの
ねえ、なんていう名前の花だったかしらね
人をさけつつ歩いていると、薄暗い門のわきで人だかりがしてた
あたしは人がきらいだけど、人だかりは大好き。みんなは何をしているのだろう
その中心から「ふくぶくろだよお、いらっしゃいいらっしゃーい」という声が聞こえた
「ふくぶくろ!」
あたしはうれしくなって、人だかりにもぐりこむ
中心には小さなつくえが一台あってその上に横長の紙袋が山になって積まれていた
紙袋はごそごそと動いていた。ふくぶくろの中身は小犬か小猫だという
一袋五百えんだって。安いね。それでかわいいペットがあたしのもの
大当たりがプードルかシベリアンハスキーの小犬であとはざっしゅ
買う気のある人はふくぶくろをつついたり、振ったりしている
元気のよい鳴き声を確認しながら慎重に選んでいる
あたしもそうしたかった
一番はしっこのふくぶくろのすきまから、ちろりとクリーム色の毛先が見えた
だけど、お金がなかったのであきらめた
ふくぶくろはどんどん売れていく
あたしは売り場からはなれて野の花を探しに行く
野の花はタダで好きなだけもらえるもん。
しばらく歩くと、ジュースの自動販売機の横にあのふくぶくろが捨てられていた
くーんという小さな鳴き声がきこえたのであたしは急いで近寄った
黒色の毛の雑種の小犬がいた。頭に茶色の点々がついていてちょっとぶさいくだった
でもつぶらな瞳がかわいいと思った
小犬はおびえていたけど、しっぽを遠慮がちにゆらしていた
あたしは小犬を抱きしめた。小犬は前足が二本とも折られていてぶらんぶらんだった
きっとさっきのお店で買ったのはいいけれど、
自分の欲しい種類の小犬か小猫ではなくって捨てたんだ
小犬はこれでは歩けないだろう。かわいそうに。でも世の中、そんな人ばかりよ
あたしは小犬の鼻にそっとキスをした。小犬はあたしのくちびるをぺろとなめた
あたしはなんとなく泣きそうになった。あたしたちは友だちだ
わんちゃん、かわいい、そしてかわいそうなあたしだけのわんちゃん。
さあいっしょに野の花を見に行こう
わんちゃんのあたたかい体を抱きしめ、
わんちゃんの心ぞうのとくんとくんという音を感じながらあたしは歩く
大きなどうろに出た。くるま、たくさんのくるま
大きなトラックがびゅんびゅん飛ぶように走っている
その中のどれかに乗せてもらえれば野の花を見に行ける
あたしとわんちゃんは誰か目にとめてくれないかと道路わきに立った
ほこりがすごくて目とのどが痛いと思いながら立っていたらいきなりバーンという音がした
あたしたちのすぐ足元でドサという音をたてて、ハイヒールをはいた女の人の足が転がってきた
ひざから下の足でハイヒールの色は赤だった
一台のトラックが轟音を立ててすぐ先で止まった
このトラックがこの足の持ち主をひいたのだ
トラックの運転手がおりてきて、前のタイヤにからまってしまった女性の死体をひきずりだした
ぽいぽいと死体のかけらを道路わきに放り出すと
トラックは何事もなかったようにきたない排気ガスをまきながらどこかへ行ってしまった
ひかれてばらばらになって首だけになった女の顔がこっちを見ている。目も口も大きく開けている
ああ、すえたこの血のにおい、ここの道路で車にひかれて死ぬ人は多い
道路わきには死体や白骨が転がっている。あたしはあんなになりたくない
あたしはわんちゃんを抱きしめた
この血、血の街、血の国に
あたしは生まれてきたくなかった。あたしはすぐ足元に転がっているちぎれた足をぼんやり見ていた
と、いきなりあたりの騒音がぱたりと途絶えた
歩行者信号が赤から青に変わったのだ。人々は我がちに横断しはじめた
あたしたちも勢いに押されたように渡った
渡りきってふりむくとさっきの女の人の死体をかきだいて男の人が声をあげて泣いていた
きっと恋人だったのだろう
あたしはそんなの見たくない
あたしが見たいのは野の花。野の匂い。野の光景。やさしい風と雲と空
あたしもいずれは死ぬ。それなら野の花に囲まれて死にたい。このわんちゃんといっしょに
あたしはわんちゃんに目を向けた。わんちゃんはしっぽをふってくれた
あたしはわんちゃんにキスをする。あたしはトラックに拾われて野の花をみにいくのはあきらめた
自分の足で歩いていこうと決めた
しばらく歩くとだんだんとあたりがさみしくなってきた
薄汚いコンクリートのかべばかりが続く
ひびわれたアスファルトに紙やプラスチックのごみがつまっていた
かべにそっとすわりこむ人々はみんなぼんやりとした顔をしていた。寝っころがっている人も多い
一人で大声をあげて笑っている人もいる。動いている人は麻薬でお楽しみ中だった
あたしとわんちゃんは誰も見ないように、見られないように歩いていく
すると真ん中から色とりどりの花がやってきた。ああ、あれはお花屋さんだ
リヤカーいっぱいにお花をつんだ花屋さん
赤、ピンク、きいろ、オレンジ色。つややかな緑。それらは灰色の街の中で光り輝いていた
花屋さん、なんと懐かしいこのひびき
リヤカーを押していたのはおじいさんだった。しわしわだけどやさしい目をした、おじいさん
あたしが花の前に行くとおじいさんは立ち止まって迎えてくれた
「いらっしゃい、何がほしいのかね。赤い花、黄色い花、ピンクも青もどんな色の花でもあるよ」
「野の花はある?」
「野の花、それはむつかしいね」
おじいさんは悲しそうに言った。
「よく見てごらん。ここには野の花はない」
あたしはあっと思った。リヤカーの花は全部、造花だったのだ
「よくできているが、これらはもぞうだよ。それでもよかったら売ってあげるよ」
「いらないわ」
あたしはつぶやくように返事した。おじいさんは黙って赤いけばけばしたばらを一輪くれた
あたしは黙って受け取る。おじいさんは言った。
「……こんなものでも街の人は買ってくれる。わしにはばあさんがいて毎日毎日これを作って売って暮らしていたんだよ」
「ねえ、野の花はどこへ行ったら見れるの」
おじいさんはかぶりをふった。
「野の花はもうどこにもないんだ」
あたしはがっかりした。おじいさんはあたしをまっすぐに見て言った。
「おじょうさん、わしと一緒に行かんかね。実はきのう、わしのばあさんが死んだ。七十年間つれそったばあさんだ。それでわしはさみしゅうてかなわないのじゃ。なあ、わしと一緒に花を作って売らんかね」
今度はあたしがかぶりをふった。あたしはおじいさんとリヤカーを置いて先へすすむ
野の花がないなんて絶対うそだ。いつか目の前に野の花があらわれるはず
行く手をさえぎるように、三人の男があたしの前にたちはだかった
三人とも白衣を着ている。病院の人だ。あたしを連れ戻しにきたのだ
あたしはくちびるをかみしめた。野の花はあきらめない
あきらめないったらあきらめない
男に手を取られ口をふさがれる
わんちゃんが男に放り投げられた
わんちゃんの悲しげな鳴き声を最後にあたしは意識を失う
でもあたしは絶対にあきらめない