#6 橇(そり)を引く犬、フェイクファー、投石 (2)
翌朝、僕たちはハヤサカに指示されたとおり、中国語で書かれたプラカードや旗を持って同じ場所に集まった。
雨は相変わらず朝から降り続け、薄い水の膜が張った世界で呼吸をしているような感覚だった。僕は真っ黒いレインコートを羽織り、『死』と赤いペンキで
書きなぐったプラカードを首から下げさせられた格好で、知らない人たちの中で一言も喋らず、朝から立ち尽くしていた。ハヤサカという男は、どうやらいろんなところに声をかけているらしい。その場所には次第に人が集まり始め、気がつくと200人ほどの集団に膨らんでいる。集まった人間はみんな若かった。彼らは雨に打たれながら、増水した河のようにごわごわとざわめき続けている。
誰かがさっそく中国の赤い国旗を燃やした。
集団には情熱的な歓声が沸き起こり、同時に暴力みたいな拍手が集団を包み込んだ。まるで嵐の後の河の中州に取り残されているみたいだった。僕は誰かに押されて、瓦礫の上に倒れこむ。瓦礫の尖った破片が膝を直撃して、激痛が走った。僕は短く呻き声をあげる。
『ミゾグチくん、だいじょうぶ?』
僕は彼女の声がする方を見上げる。ミヤガワさんが腰を折り、心配そうに僕を見下ろしている。彼女の長い髪が首から滑り落ち、僕の顔に触れそうだった。『足、大丈夫?』
彼女は手の甲で髪を整えながら、その場所にしゃがみこみ、僕の膝をひとしきり見る。
僕のジーンズは膝のところが少し汚れただけで、破れてはいなかった。
『大丈夫だけど、足をくじいたみたいです。今は立てません。』
僕は恥ずかしくなって彼女から目を逸らす。
『そう、それじゃあここでしばらく座っておくといいよ。うん。私もいっしょにいてあげるから。』
彼女はそう言って、ぎゅっと自分の膝を抱え込む。僕は、自分が邪魔になってい
ないかとまわりの視線を気にする。だが人々はみな、僕のことを瓦礫の一部とでも思っているかのように僕になど目もくれず、集団の前方で焼かれていく赤い旗に熱狂している。
『ミゾグチ君はどうして参加したの。』
彼女が尋ねる。僕は、わからない、と正直に答える。
『ミヤガワさんは?』僕は彼女の目をまっすぐに見る。
『そうね、私はね、うん。やっぱり許せないのよ。』
彼女の瞳に、地面に落ちた瓦礫と同じ色の光が横切る。
『私は、地震が起こる前の世の中を、取り戻したいの。』
彼女は真理を告げるみたいに小さな声ではっきりと言う。
僕は、そう、と彼女に微笑んで下を向く。膝の痛みと麻痺が、潮がひくように和らいできたころ、彼女は急にうつむいて、僕の手の甲に軽く手のひらをおく。僕は戸惑い、彼女の表情を読み取ろうと顔をあげる。
だしぬけに彼女が、裸に見えた。
『ミゾグチ君、私のせいでごめん。ずっと言いたかったんだ。本当にごめんなさい。』
彼女の手のひらはフェイクファーのように心優しい感触だった。そして今にも壊れてしまうような子猫みたいな柔らかさと震えがそこにあった。僕は何かを言おうとする。けれど彼女の涙をためた瞳を見ていると、まるで別の世界にやってきて不条理な事態に巻き込まれているようでもあった。
僕は、気にしなくていいです、とクールに答えようと心に決める。僕がそう言いかけたとき、集団の前方で異様な歓声と悲鳴が予告もなく同時にあがる。
一気に集団のかたちがぐしゃぐしゃに歪み、大勢の人間が一斉にあらゆる方向に向かい駆け出す。その場に座り込んでいた僕と彼女は多くの脚に蹴飛ばされそうになり、必死になって立ち上がった。
立ち上がるとき、彼女は僕の腕をひっぱり自分の肩に僕の手をのせた。そして、足を怪我している僕が立ち上がるのを静かに手伝ってくれた。僕は彼女の肩を掴みながら言う。それが、なんでもないみたいに。
『ありがとう。』
僕は短く笑う。ごく単純に。彼女は小さな唇の端に微笑みの影をつくり、それに答えてくれる。僕は彼女のことが好きではなかったはずだ。このときまでは。
僕の焦点は心を決めかねるみたいにいろいろなものに移る。彼女の肩や首、まつげの微かな震え、献身的に僕を見つめる彼女の目、僕たちの周りを駆け出した大勢の人間の影、そして、彼女の向こう側で集団に取り囲まれている大きな乗用車。シルバーのセダンだった。
僕はその光景を彼女の肩越しに見つめる。いつのまにかやってきた乗用車を、いわゆる暴徒が取り囲んでいる。暴徒は怒りにまかせたように暗号のような何かを喚き、熱狂的に連帯して乗用車に向けて押し寄せようとしている。僕にはそれが、ある意味で壮大で、あるいはある意味で悲劇的な光景であるように感じられた。彼女も僕の視線の動きに気づき、僕の手を肩にのせたまま、僅かに振り返る。
『はじまったね。』
彼女が、何か大切なことを思いだすみたいに言う。
誰かが尖った瓦礫の欠片を乗用車に向って投げた。気が狂った猿の一瞬の悲鳴みたいな音がして、乗用車の後部座席の窓ガラスが粉々になった。乗用車の中から、助けをもとめるような男の声が漏れた。
それを合図にして、乗用車に向けて投石が始まった。僕は彼女の顔を覗き込んだ。彼女は頬を微かにピンク色に染め、荘厳な自然の情景でも眺めるみたいに、気高く落ち着いた表情で、目の前の投石の光景を見ている。彼女はそれきり僕の方を見なかったし、一言も語らなかった。彼女はその光景に心を奪われているようだった。
僕は二度と取り返しのつかない場所に立ち会ってしまったような気がした。僕は冷静であろうとした。だが雨が地面に浸みこんでいくように、暴徒の熱狂と叫び声は、僕の中の透明なドアを通り抜けていった。僕は自分が暴力を振いたくて抑えられなくなっていることに気がついた。おそらく、彼女も僕と同じ気持ちだったと、僕は確信する。
そのとき僕は生まれてはじめて、女性の気持ちを正確に捉えることができた。