#6 橇(そり)を引く犬、フェイクファー、投石 (1)
6.橇を引く犬、フェイクファー、投石
雨は微かなホワイトノイズのように、あたりを包み込む。
僕とヨダは傘をさしたまま、何かが起きるのを予期しているように遠くの瓦礫の丘を眺めていた。
15分ほどして、僕たちがやってきた方向からミヤガワさんと数人の若い男女がそれぞれ傘をさして歩いてきた。ミヤガワさんは僕を見て、私は元気だよ、というふうに微笑む。
ほかの人たちは仮設住宅でよくみかける、ミヤガワさんとヨダの友達だった。たくさんの傘が集まり、雨が傘を打つ音が誇張されて僕のまわりに響いた。僕は人見知りして一歩さがり、彼らが始める世間話を聞いているふりをする。僕は沈黙よりも、知らない人たちのお喋りのほうがずっと苦痛なのだ。
しばらくすると今度は、反対側の道からチャコールグレイのジャケットを着た30歳くらいの男が傘をさして歩いてきた。
ヨダは彼に向って、傘を振り上げて合図を送る。
男は僕たちの顔をひとしきり点検するように、無表情でこちらを見ている。
『ハヤサカさんだ。』ヨダは男をみんなに紹介する。男はにこりともせず、システマチックに頭を下げる。ミヤガワさんやみんなは窮屈そうに頭を下げて挨拶をする。僕はあえて男を無視した。男のチャコールグレイのジャケットが、要領の悪い楽団員みたいで気に入らなかった。
ハヤサカと呼ばれる男は、手紙でも読むみたいに滑らかに話し始める。
『ヨダからだいたいの話は聞いているか。』
聞いていない、と僕は心の中で叫んだ。
だがミヤガワさんやみんなは、揃って軽く頷いている。
『シンプルに言おう。中国人や政治家どもから、この国を護るんだ。それは君たちにしかできないことだ。』
雨より冷たい響きのある声だった。僕はハヤサカに敵対的な印象を抱いた。
それから僕はミヤガワさんの顔を見た。彼女の目には何かの光がふわりと映りこんでいる。彼女のまつげは何かを希求するみたいに微かに震えている。
『力を合わせるんだ。』
ハヤサカの言葉は何かの合図みたいに雨の中で響き渡る。僕は思い切り唾のかたまりを吐きたくなった。だが、みんなの反応は違っていた。
『はい。』
ミヤガワさんが何かを突きとめたように返事をする。
まわりのみんなもそれに合わせ、雪原で橇を引く犬のように口ぐちに『はい。』と言う。
『オーケー。』
ハヤサカが大義そうに言う。
ハヤサカの声の余韻がざらざらと僕の血液にしみこんでくる。ウィルスに感染するみたいに、僕はとても無防備な気分になる。
『この場所はかつて、我々が居た場所だ。大地が裂けて、空が落ちてくる前からずっと。今、誰かに奪われたり、損なわれたりすることを、我々は受け入れてはいけない。我々は戦わなくてはいけない。この組み替えられようとしている世界と。』
組み替えられようとしている世界と、僕はその言葉を記憶に留める。その言葉だけは不思議と僕の心の空白を埋めるような気がした。
『どうすればいいの。』
ミヤガワさんが言う。彼女は燃えるような目でハヤサカを見る。
『シンプルに言う。戦う。この世界を損なうものたちから。それだけだ。』
ハヤサカは手を口元にあてる。
『地震があった日から、我々はいろいろなものたちに損なわれ続けている。
混乱するだけで何もできない無能な行政、試行錯誤ばかりで支援対策を先送りにする政治家、そいつらに使われるだけで、国民を守ることを忘れた警察と自衛軍、利益を最優先し復興を無視する企業、この混沌をチャンスにこの国から奪えるものを奪おうと暗躍する外国人たち。そして混沌の中で、欲望のまま人を傷つけようとする一部の市民たち。』
ハヤサカは大きく息をつく。
『我々はすべてから、我々自身を護るんだ。これ以上、損なわれない
ために。』
みんなが熱心にハヤサカの言葉に耳を傾けているなか、僕はミヤガワさんのこと
ばかり考えていた。今日の彼女は長い髪を後ろでアップにし、薄くメイクし、グリーンのブルゾンを羽織り、あの日と同じベージュのチノパンをはいている。僕は彼女の裸を思い出して興奮していた。
わかっている、僕は最低なのだ。僕は心の中に湧き起こる良心に対して、繰り返して言い訳をする。
彼女は僕の異質な視線に気がついたのか、僕の方をちらりと見る。だがすぐに焦点をハヤサカに戻す。まるで僕が透明になったみたいに。
『明日、中国企業の視察団がこの道を通る。シルバーのセダン、NISSANのシーマ。正確な情報だ。』
ハヤサカは口元を押さえたまま、笑う。汚れたガスが漏れてくるみたいな
不愉快極まりない笑い方だった。僕は諦めたように、灰色の空を見上げる。
瓦礫の中に集まった無数の傘の上に、雨が降り続いていた。それは長い時間をかけて空からやってきた何者かからの合図みたいに思えた。