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#5 ホワイトノイズ、牛の解体、中国


 5.ホワイトノイズ、牛の解体、中国


 バーベキューと焚き火があった日から3週間が経過した。

あの日の深夜からずっと、市街の上空にはロシアの平原より広大な雨雲が停滞し、街には雨が降り続いている。

ほとんど空気の塊みたいな微小の雨粒が街を1日中覆い尽くしている。街のいろんな場所で、雨粒は光の虫のように輝き、命を与えられたように舞う。それはまるで世界のところどころが、少しずつ組み換えられていくような感覚だった。

僕は新しい黒い傘をさして、誰もいない瓦礫の市街をヨダと歩きながらそう思う。

『あの件は、もう考えるな。』

隣を歩いていたヨダが、僕に囁く。僕は無数の雨粒に向かって、『わかっている。』と言う。僕は、雨粒が瓦礫を打つ音に耳を澄ます。

『地震があった日からこの国は変わったんだ。いいかい、ミゾグチ。地震の前のルールで考える必要はない。俺たちは今、地震の後の世界にいる。たった一瞬で世界はがらりと組み換えられたんだ。床がすとんと抜け落ちたみたいに。この国はすでに法治国家じゃない。罪を犯した人間に罰を下すのは、法権力じゃない。』

ヨダは僅かに可笑しそうに笑う。

『地震の後で、俺は女の子がひどい目に会うのを何度も目にしてきた。地震の後、男たちは女の子たちを、フットサルでもするみたいにひどい目に遭わせ続けた。この瓦礫のそこら中でね。警察や自衛軍はそのすべてを取り締まることができなかった。奴らには奴らなりの優先順位がある。女の子を護ることは、その順位では下の方だったらしい。そういうときって、どうすればよかったと思う。』ヨダは深く息をつく。僕はとりあえず黙っている。

『誰かが武器をとって女の子を護るんだ。それしか選べない。』

それしか選べない、と僕は確かめるように呟く。

『俺もそうしてきた。あの日のミゾグチと同じように。』

ヨダの声には切実な響きが含まれている。

『どうせ警察は動けない。奴らはまだまだそれどころじゃないんだ。3週間経った今も、君が捕まっていないのがなによりの証拠だ。』

ヨダはそう言って黙りこむ。僕も特に言うべきことが思い浮かばなかったので黙る。

 僕とヨダは傘をさして、かつて市街地だった瓦礫の光景の中を歩き続ける。雨の音は微かなホワイトノイズのように世界を覆っている。この世界のすべてが、瓦礫を残して消失したような感覚が僕の中を繰り返し通り過ぎていく。

ひとしきり時間が経過した後で、ヨダがおもむろに口を開く。遠くに落ちる雷のようなひどく落ち着いた声で。

『知っているか。このあたり一帯は、中国の企業が買い占めたらしい。』

ヨダは立ち止まる。

僕はヨダの顔を覗き込む。彼の瞳の中を何かが横切る。

『政治家と行政と国内の企業が、この一帯の用地を中国企業に売った。』

僕はヨダの視線の先を追う。ヨダは遠い瓦礫をじっと見ている。

『おそらく、これからこの国は、そうして切り売りされていくんだ。牛の解体みたいに。』

僕は大勢の中国人たちが中国語をけたたましく話しながら、生きた牛を解体していく様子を想像する。

『俺は許せないんだよ。かつて俺たちの住処だった場所が、政治家や行政や企業に見捨てられて、中国人のものになることが。』

ヨダの傘を持つ手が微かに震えている。

見捨てられた、と僕は確認するように言う。

『そうだ、見捨てられたんだ。【復興】の大義名分のもとで、経済的復興を優先して外国企業に売り続けるんだ。それがひいては、地域の復興につながると信じられている。』

僕にはヨダの悔しさが理解できた。

ヨダはおそらく、今までの人生で奪われることを経験してきていないのだと思う。自分たちが損なわれた場所で、知らない中国人たちが新しいものを手にすることが許せないという絶望と憎悪と嫉妬は、おそらくヨダを無限の拷問みたいに苦しめている。

だが僕は彼に共感しなかった。僕はそういうことに慣れている。

なにより話が大きすぎて、僕にはその苦しみが馴染まない。

 雨は僕たちに何かを知らせるみたいに、傘の表面を優しい音をたててノックする。

僕はヨダに帰ろう、と言う。

『待ってくれ。君に会わせたい人がいる。もうすぐ、ここにやってくる。』ヨダは、僕に向かって奇妙な笑みをつくる。

『俺のサークルのОBだ。その人は、これから俺たちがどうすればいいかを教えてくれる。』

僕は、諦めたように頷いた。


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