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#4 性欲、ウイスキー、喉  (1)

 4.性欲、ウイスキー、喉


 僕はいつのまにか意識を奪われ、深い眠りの淵にいた。

どれくらい、その淵の上で意識を取り戻すことをほおりなげていたのだろう。

目を開けると、窓には僕が連れてきた影のようなレインコートと、すっかり暗くなった空が不機嫌そうに僕を見下ろしている。

小屋の外を、小さな男の子たちが騒ぎながら通り過ぎていく。いつも午前中の図書館のように静かなこの街の夜に、今夜はどこか騒がしくきままな空気がたれこめているのがわかる。

『焚き火だ。』

僕は影に向って囁く。

僕はこのまま、明日の朝まで身体の不調を訴えて眠ろうかと考えてみる。

だがいくら目を閉じても、眠りは暗闇の向こう側からもう、こちらへやってきてはくれなかった。

僕はしかたなくベッドから起き上がり、小屋を出ていこうとする。

その時にはじめて、自分がナイロン傘を倉庫に忘れてきたことに気がつく。僕は微かな奇声をあげて、小屋の壁を殴りつけた。でも、音はしなかった。真っ暗な小屋の中のどこかにある隙間に、音そのものが飲み込まれたみたいだった。僕は自分の神経を鎮めるために、ゆっくりと靴ひもを結びなおす。

そして、小屋の引き戸をゆっくり開けて外へ出る。

僕は引き戸を閉めながら、もう一度、小屋の中を点検する。真っ黒いレインコートが、僕が忘れた影のように、小屋の中でひっそりと吊るされている。何かを深く考えているみたいに。

 僕が集落の入口まで来ると、大勢の人間が集まっているのが見える。おじいさん、おばあさんから小さな子供、男、女、おそらくあらゆる層の人間が、そこには集まっている。

そして、心優しい匂いがあたりを包み込んでいる。焼けた牛肉と野菜と、ソースと胡椒の香りが大気の中で親密にとろりと溶けている。集まった人たちはみんな、その空気の中で実に美味しそうに焼けた肉と野菜をほおばっている。僕はその光景をみて、激しく興奮する。食欲というより、それは性欲に近い衝動だったかもしれない。

すぐにでも僕は何かにかぶりつきたくなる。何でもいい、と僕は思う。僕は空腹ではなかったのだけれど、お腹が空いているふりをして自分の腹に手をあてて、彼女を探した。彼女はすぐに見つかった。

大勢の人間の中心で、彼女は炎といっしょにいた。

 太陽が落ちた後の暗闇のなかで、彼女はうさぎの世話でもするみたいに愛しそうに焚き火をくべている。

時折、ウイスキー色の炎の中で、思い出したように木がばちりと音を立てて焼け落ちる。それは世界のスイッチが突然、オフになったような誇張された音だった。

柔らかい綿のような炎は彼女の腰くらいの高さまで燃え上がり、死者の魂みたいな白い煙は、暗い空へと道を辿るように運ばれていく。ただ、炎は献身的にそこにあり、彼女を励ますみたいに揺れている。炎のまわりにはヨダと何人かの人が集まっているが、彼らの表情は暗闇に飲み込まれ、うまく読み取ることができない。

僕はひとしきり、揺れる炎を眺める。誰かの鼓動の一音に耳を澄ませるみたいに、僕は炎に耳を澄ませる。

『ミゾグチくん、きてくれたんだね。』彼女が僕に気づき、振り返る。

『すみません。準備を手伝えなくて。』僕は彼女に近づく。彼女の肌は炎に照らされて、グラスに注がれた冷たいウイスキーのように美しく、僕の心を打った。

『いいのよ。』彼女はほっとした声で言う。『きっと疲れたのよね。今日は本当にありがとう。』彼女は僕の呼吸が聞こえる距離まで近づき、僕の顔を覗き込む。僕は実に興奮した。

何かを取り戻すみたいな目で、僕は彼女の唇をじっと見る。彼女の唇が、フランス料理にでてくる高級な食材のようにみえてくる。そのとき、僕ははじめて空腹を感じる。

『でもこれから、倉庫へ戻って、忘れた傘をとってくるんです。』僕は後ろに下がりながら言う。彼女が驚いたように言う。

『今から?』

僕は、いまから、と彼女の言葉を繰り返す。僕はそう言って、彼女に笑いかけてみる。暗い空の下、ウイスキー色の炎が照らす世界の中では、いくら笑うのが苦手な僕でも、たぶんうまく笑えているはずだ。

『あのね、焚き木がたりないの。』彼女は僕の笑顔を、当たり前のように無視して言う。

『タキギガタリナイ』僕はそれが依頼であることを、しばらくしてから理解する。

『今度は私もいっしょに行くから。ね。』彼女が僕の腕に触れる。上等なブランデーケーキのような甘い匂いと、壊れるくらい柔らかい感触の手のひらだった。僕は石油をかけられ、マッチを顔に投げ込まれたみたいに、自分が焼けて消え失せていくような気がした。

 僕は彼女に手をひかれるままに、その場所をあとにする。後ろでヨダが僕たちを呼ぶ声が聞こえたが、僕はわざと振り返らなかった。まるでデートじゃないか、と僕は自分勝手な卑しさに酔った。

僕は彼女を途中で待たせて、小屋にレインコートを取りに戻る。真っ黒いレインコートは、僕が吊るしたときと同じ格好のまま、そこで僕を待っていた。僕は

素早くそれをぐるぐると乱暴に巻きとり、脇に挟んで持った。

『どうしたの、それ。』暗い道の上で待っていた彼女が、その黒い塊を指さして聞いた。

『夜は冷えますよ。ミヤガワさんも、何か羽織るものを持ってきたらどうですか。』

『面倒だからいいよ。』彼女はそう言って、台車を押してすたすたと歩き始める。僕は彼女と並んで歩こうと、暗い道の上、彼女を追いかける。

 厚い雲のせいで、あらゆる星座は暗闇の中に消え去り、僕たちはそれを捉えることができない。倉庫までの暗い道は、とても不吉な長い道のように思えたけれど、僕は彼女と並んで歩けることが幸せだった。だが僕は、肝心の彼女と何を話せばいいのかわからず、ほとんど無言で歩き続けた。時々、彼女がバーベキューの作り方や焚き火の起こし方を暗闇の中で身振りを交えてレクチャーしてくれたけれど、そのすべては僕を通り越して、暗闇の中に星座と同じように消えていった。僕は彼女にではなく、暗闇の隙間に向かってひずんだ声で相槌を打つばかりだった。

 僕たちは自衛軍キャンプを大回りして、倉庫に到着する。倉庫にはやはり誰もいない。

そしてその場所では圧倒的に光の量が足りない。暗闇の中で、倉庫は海の底に沈んだ壁のように、静謐を護っている。僕は倉庫の中に入るのをためらったが、ここまできて引き返す訳にもいかなかった。彼女は心を決めかねる間もなく、すたすたと僕の前を歩き、倉庫の中へ台車を押して入っていく。それはまるで、巨大な壁の中に溶けていくようにも見える。

僕は彼女に忘れられているような気がして慌てた。僕は彼女と同じように、壁の中にはいる。その中は、昼間とはまるで違う場所のように思える。昼間、完全な廃棄物置き場だったその場所は、夜の闇が降りた今、人間ではないものが息を潜めているような、別の世界の入り口のようだった。

僕と彼女は夜の海に沈んでいくような感覚で、倉庫の中を歩く。

時折、彼女が何かの欠片を踏んだ音が、音の存在しないはずの闇の中で腹を立てたように響いた。

『暗すぎて、わからないじゃない。』彼女は不機嫌そうに呟く。僕は自分が怒られているような気がして、その場所に立ち止まる。彼女は僕が立ち止まったことを知らないまま、すたすたと暗闇の奥へと進んでいく。彼女が行ってしまったあとで、僕は真っ黒いレインコートを羽織った。レインコートは僕の身体を献身的に包み込むが、同時に何種類もの埃の臭いが鼻を殴りつけるように襲いかかった。僕は真っ黒いレインコートのジッパーを首の根元まで締め上げながら、昼間、ヨダと木材を拾ったあたりを注意深く、歩きまわる。

そして闇の中で、誰かの魂のぬけがらのように地面にへたっている、白いナイロン傘を見つけた。それは暗闇のなかで、合図を送るように白く光っているようにみえた。僕はナイロン傘を拾い上げる。そのとき、僕は暗闇の中で、だしぬけに自分の身体が損なわれていくような気持ちになる。暗闇は荒く黒い粒の集まりで、それはここに迷い込んだ人間の身体をぐちゃぐちゃといつのまにか分解していくのだ。分解された人間は、暗闇の中で深く息をつく瓦礫の一部になるのかもしれない。僕の精神は目の前の暗闇を唐突に畏れ始める。

いつのまにか、彼女の存在感が暗闇の中から消えている。彼女が瓦礫の一部になってしまったように思えた。喉の奥から焼け焦げた空気の塊のようなものが浮かんでくるのを感じる。僕は泣きそうになる。僕は、彼女の姿を探し求めた。


 僕は、暗闇の中で彼女の名前を呼ぶ。すると暗闇の向こう側から、彼女の声みたいなものが聞こえる。それは地下を流れる水の音のようなひっそりとした脆い響きだった。僕はそこに悪いものを感じ取る。僕はその響きのあった方向に向かって走る。暗闇の中で、僕の目は突然、適応する。まるでそこに架空の月明かりが差し込んだみたいに、僕の視界はぼんやりと薄暗い世界を捉え始める。

『ミヤガワさん。』僕はもう一度、彼女に呼びかける。

 暗闇の中で、彼女はいた。その瞬間、僕はとてつもなく混乱した。彼女に覆いかぶさるように、人間のかたちをした暗闇が、彼女の身体を押さえつけている。それは彼女のシャツを新聞紙みたいにしてぐしゃぐしゃに破り、彼女の身体から剥ぎとろうとしているところだった。純粋で不当な暴力であることは明らかだった。彼女の肌が露出していた。新品の白いシーツみたいに平たく綺麗なお腹だった。彼女は華奢な腕を振り上げて、それに抵抗しようとしているみたいだったが、それは圧倒的な腕力で彼女の右腕と首を瓦礫の上に押さえつけ、固定させている。彼女はむなしく左手をばたつかせていたが、それの膝の部分を指先でたたく程度だった。人のかたちをした暗闇は、システマチックな動作で彼女の

首から手をどかし、蝿を払うように彼女のブラを引きちぎった。僕はそのとき、生まれて初めて、若い女性の乳房と脇の下を目にした。彼女の乳房は、瓦礫の中にできた湧水の水たまりみたいに、優しい波紋を微かにたてて揺れた。彼女の脇の下には、冬の日陰に生えた薄い芝生みたいなうぶ毛が見えた。彼女は、世界の最後のサイレンのように叫んだ。僕は彼女のサイレンを合図にするみたいに、振り向こうとするそれの首筋にめがけて、持っていた傘を突きたてようとする。

突き立てる瞬間、自分が別の世界に踏み込むような感覚があった。傘の先端は、それの喉元の正面に斜め横から食い込んだ。熱のある弾力を僕の手のひらは記憶する。それは身体全体を大きく仰け反らせ、はるか上空をわたる風のような声にならない悲鳴をあげた。人のかたちをした暗闇は大きく痙攣し、彼女の上から転げ落ちるように地面の上をのたうちまわる。彼女は涙を溜めた大きな目で、気持ちを決めかねるように僕を見る。

僕は彼女の胸を見る。

ふたつの乳房は、若いイルカの頭みたいに瑞瑞しくてまるく、おそらく僕の手のひらにうまくすっぽりとおさまる大きさだった。僕は今すぐそこに触れて、キスして、性欲のままに好きにしたかった。僕は吐き気をもよおすくらい、激しく興奮していた。

けれど、僕は彼女の裸を無視する。

いつのまにか僕は、引き抜いた傘の分解を始めていた。ナイロン傘は金属の骨の部分だけになり、僕は力任せに骨の部分を何ヵ所か折り、長い金属の棒を手にした。僕はその武器で、倒れている人のかたちをした暗闇の、喉元を繰り返して何回も突き刺した。海岸に降る雨のように、金属の棒は無防備な喉の表面に無数の穴を開ける。人のかたちをした暗闇は、血まみれになった喉を震わせ、僕に何度も何かを言う。そして次第にその形状を人間のものに変えていく。

何度か痙攣したあとで、それは動かなくなる。人のかたちをした暗闇だったものからは、暗闇がすっかり剥げ落ちたように消え、あとには喉と口を血に染めた中年の男が、目を見開いたままで倒れている。


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