#3 車輪、レインコート、影
3.車輪、レインコート、影
小屋の入り口には、透明のナイロン傘がふたつ立てかけてある。
小屋の中に微かに吹き込んでくる風とナイロンの表面が、音をたてずに共振している。
ヨダはナイロン傘のひとつを手にとる。そして傘の先や表面を点検しながら言う。
『傘もいるだろう。』
いらない、と僕は呟く。ヨダは大儀そうに僕のほうを見る。
『ミゾグチ、今はたまたま雨が降っていないんだ。この国の上空には恒常的に台風が停滞しているんだぜ。傘がなくちゃ、俺たちはどこへもいけない。』
『傘がなくちゃ、どこへもいけない。』
僕はヨダの言葉にアンダーラインをひくように返す。
そう、とヨダは満足そうに頷く。
僕はもうひとつのナイロン傘のプラスチックの柄を掴む。
『行こう。』僕はヨダにではなく、ナイロン傘に向かって言う。
僕とヨダは折りたたんだままのナイロン傘を手首にかけて、小屋をあとにする。途中、ヨダは僕を十字路で待たせておいて、どこかから台車を借りてきた。砂利と深い水たまりの上を、台車の車輪は血管の中を蝿が飛び回るような不規則で不愉快な音を響かせて移動する。その音は僕にはひどく居心地の悪いもののように感じられた。僕は車輪の音を意識から遠ざけるために、歩きながらずっと二人分の軍手を手でいじる。ヨダは車輪から跳ね返る泥水に神経質に注意しながら、台車を押して僕のあとを黙って着いてきていた。
僕たちは仮設住宅の集落から離れ、自衛軍キャンプの敷地に足を踏み入れる。
巨大な毬藻を想像させるような、濃い緑色の丸型のテントが並んでいる。テントの入り口にはすべて、日本の国旗がひっそりと描かれている。何かの不確かな暗号みたいに。迷彩服に覆われた若い自衛軍人たちが、規則正しい歩幅でテントの間を行き来しているのが見える。
彼らの迷彩服はどれも擦り切れ、乾いた泥で汚れている。どちらかといえば、枯れかけた植物で全身を覆っているみたいにみえる。僕が自衛軍人たちの様子を特に何の感情も抱かず見ていると、そのうちの一人と目が合った。遠くにいて表情は読み取れなかったが、そいつは不機嫌そうな声で僕たちに向かって怒鳴った。
『お前ら、離れろ。』
台車の車輪の音が突然止まったので、ヨダが動くのを止めたのがわかった。
僕もその場所に立ち止まる。
『聞こえなかったか。はなれろと言っている。』
そいつは焼き魚を狙う前の子猫のように一度、身を屈める。飛びかかってくるつもりなのだろうか。
『うるさそうなのに見つかった。いったん離れたほうがいいな。』
僕の背中から、ヨダの声が聞こえる。
僕とヨダは、そのまま後ろ向きに2歩戻り、素早く振り返って、そいつに背中を向ける。僕とヨダは自衛軍キャンプの敷地からでていく。みっともない車輪の音を立てながら。
『ああいうのが大勢いるんだ、あそこには。』ヨダが吐き捨てるように言う。ヨダがナーバスな感情を僕の前で露わにするのは、もしかしたら初めてのことかもしれないと思った。
僕はふうん、と空気が抜けるような相槌を打った。
『本来、あいつらは救援活動のためにいるんだ。俺たちのための。それが今はどうだ。救援活動は縮小され、最低限以下の援助しかされていない。先進国の充足した救援活動は、もう機能していないんだ。それじゃあ、あいつらは今、何をやっているか。』
ヨダはそう言って、大きく息をつく。ヨダの目の中を何かが横切る。
『救援活動を継続しているふりと、ああやって、少ない物資を守るのが最優先の仕事だ。』
僕はヨダの熱弁に対して、特に何の感想も持ち合わせなかった。それより、ヨダが出し抜けにナーバスになったことのほうが、僕を不安定な気持ちにさせた。
僕は、困ったね、と誰にいうでもなく呟いた。
その後、僕とヨダは重苦しい沈黙を引き連れて、自衛軍キャンプの敷地を大回りした。
敷地に沿い東側に向かって歩き始め、住人を失った市街地の瓦礫と、自動車も犬もいない割れたアスファルト道路の風景の中を、20分ほど歩いた。ミヤガワさんの言っていた、【体育館のような倉庫】が僕とヨダの目の前に姿を現しはじめる。
それは高い壁のように曇り空に向かってそびえ、冷たく僕たちを見下ろしている。コンクリートの壁にはところどころ、長い時間をかけて雨と風がつくりだした深いシミが暗号の羅列のように広がる。
『ここにきたのは久しぶりだ。地震の直後、俺はよくここにきた。』ヨダが高い壁を親密そうに見上げて言う。僕はゆっくりと深呼吸する。倉庫のまわりには瓦礫しかみえない。人ひとり見当たらない。遠くで大型トラックのエンジンがかかる音がする。それは透明で巨大な動物のため息のように、けだるく周囲の大気を揺らす。
『木造の古い家はあらかた潰れたんだ。木材ならまだあるだろう。』
ヨダはそう言って、台車を押す。倉庫の入口は洞穴のようにぽっかりと開いている。かつてそこにあった鉄のシャッターと扉は、地震のあった日以来、意味をなくして誰かに引き剥がされたのだろう。
僕とヨダは倉庫の入口に足を踏み入れる。その瞬間、奇妙な空気が僕の全身を捉える。鼻から吸い込む空気は、ほこりっぽくおぼろげな代物で、喉の奥で蒟蒻のようにぶるぶるとひっかかった。
僕は咳きこみながら、薄暗い倉庫の中を見渡す。倉庫の中には多くの家屋の欠片が敷き詰められ、積み上げられている。
ひとつの区画の家屋を地面ごとぽっかりと奪い取り、海底の大きな渦の中にほおりこみ、ひとしきり破壊したあとでその塊をとりだし、この場所にただ置いたような、脈絡のない暴力の痕跡だった。
匿名の家族たちがいた形跡が、純粋な廃棄物として存在しているのだ。ほこりと泥とカビと血にまみれた、匿名の空間の中で。
僕は唐突に怖くなる。
『使えるものはほとんど残っていない。自衛軍やボランティアやNGОが処分したり、住民同士で奪い合った。』
ヨダが台車から手を離し、近くに積み上げられた瓦礫を覗き込んで言う。
『もうすぐ廃棄物として、すべて処分される。』
僕は黙ってヨダに軍手を手渡す。
『はじめよう。』僕が言う。
僕とヨダは軍手をはめた手で、家屋の瓦礫の点検を始める。焚き火に使えそうな木材はすぐに見つかったが、ノコギリを持たず、手ごろな大きさの木材を確保するのには時間がかかった。
僕とヨダはそれでも作業に対する愚痴を言わず、黙々と瓦礫の内部に腕を伸ばし
ては、人の骨のような木材をかき集めた。
1時間もかからず、台車の上には木材の小さな山ができた。
『これだけあればいいと思う。』僕は、台車の傍に座り込みながら言う。ヨダは台車から離れた場所で、まだ木材を拾い集めている。
『ミゾグチ、みてくれ。』
ヨダの声は、倉庫の中で奇妙な響き方をする。瓦礫の中から別の何者かが呼ぶみたいに。僕は返事をしないまま立ち上がる。
『ミゾグチ、いいものがある。』
今度は前よりくっきりとヨダの声がする。僕はヨダが座り込んでいる場所に駆け寄る。
『エロ本でもみつけた?』
僕はそういう期待をした。ヨダは違う、と抑揚のない声で答える。
僕は幾分、打ちひしがれた気分になる。
『瓦礫に埋まっていたんだ。』ヨダはそう言って、真っ黒い塊を僕の目の前につきだす。
『なんだい、これは。』
ヨダは真っ黒い塊をごそごそと両手で丁寧に広げる。
ばさりと細かい粉塵が地面に落ちる。
『自衛軍のものだ。』
ヨダが広げたのは、真っ黒な厚手のレインコートだった。両肩には日本の国旗がはいっている。僕はレインコートに触れてみる。テント生地のような、あるいは薄いプラスチックのような材質だった。
『頑丈そうだね。』僕はそれをしばらく手でいじってみる。
『ひとつ前の軍用レインコートだ。今はもっと、動きやすそうなものが着用されている。』
ヨダはレインコートにまとわりついている粉塵や泥を、軍手をはめた手で払う。
『古いから捨てたのかな。』僕はヨダに聞く。
『それはない。たかがレインコートでも自衛軍の装備だ。おそらく復旧活動中にこれを着ていた人が…』ヨダは試行錯誤するように黙り込む。
『事情はよくわからないけれど、知らなくてもいいことだと思う。』
僕は大きく息をつく。
ヨダはレインコートの粉塵をあらかた払い落とした後、最後にそれを空中に広げる。ばさりと鳥が空に飛び立つような音が響く。
『ミゾグチ、着るか。』ヨダが僕に聞く。
僕は、真っ黒い衣に春先の虫みたいにへばりついた日本の国旗をひとしきりみつめてから、うん、と頷く。そしてヨダから布の黒い塊を受け取り、台車の木材の山の上にかぶせた。
まったく自分がどうしてそれを欲しいと言ったのか、うまく理由をでっちあげることができなかった。ただ、街の残骸を目の当たりにした後で、僕はいくらかでも何かを取り戻したいと感じていた。だからといって、自衛軍のお古のレインコートを手に入れようとするのは、我ながらどうかしている。僕はすぐに後
悔し始めていた。
倉庫から仮設住宅の集落に戻ってくると、ミヤガワさんとその仲間たちが待っていた。
集落の入り口あたりで、彼女たちはすでに食材と調理器具を並べて、バーベキューパーティーの準備を始めている。
『早いね、ありがとう。』彼女は、僕とヨダを見て礼を言う。僕が、いいです、と言いかけると、ヨダが彼女に近づき言う。
『お嬢、焚き火を起こす段取りは?』
彼女は明るく首を横に振る。『ヨダにまかせてもいい?おねがい。』
ヨダはやれやれ、と言いながら小さく頷く。僕はそのやりとりを見てなぜだか腹を立てた。
僕はレインコートを手に取り、トイレに行くふりをして、自分の小屋に帰った。
自分の小屋に戻ると、僕はレインコートを針金でできたハンガーにかけ、窓際に吊るした。それはまるで、別の世界からやってきた影みたいにみえる。あるいは僕のざらざらとした魂の暗示のようにもみえる。僕はだんだん無防備な気持ちになってきた。僕はただ、その影から目を逸らし、自分のベッドにうつ伏せに倒れこむ。そして影から逃れるように目を閉じる。暗闇の向こう側から、長い時間をかけて眠りが押し寄せてくるのがわかった。