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#17 少年、灰、演説 (3)

 雪の中、活気のある集落を歩き続けると、櫂木に囲まれた庭園が見える。

大勢の人々が行列をつくり、その庭園の中に入っていく。

『あそこだ。』

ヨダが蔑むようにして言う。僕は自衛軍のおさがりの黒いレインコートのジ

ッパーを、首元まで締め上げる。心を決めるみたいに。そして、黒いフードをすっぽりと頭に被る。途端に僕を取り巻く様々な音が誇張されて、僕の耳に届く。同志たちひとりひとりの呼吸の音、足音、ヨダが指示をだす声、河の濁流のように次第に大きくなる人々のざわめき、僕の不規則な心臓の音、そして灰色の雪が僕のコートに落ちて、蒸発し溶ける音。


彼女を護るんだ、黒いレインコートの裏側から、僕の声ではない誰かの声がする。


その声を、僕は鼓膜ではなく全身の皮膚に吸収する。

『何か言ったか、ミゾグチ。』

出し抜けにヨダの声がする。僕はフードの奥からヨダの顔を覗きこむ。ヨダの目には、見てはいけないものを見てしまったような混乱した光が宿っている。

『何も言ってないよ。前に出なくてもいいの。』

僕はいつのまにか、ヨダに対して挑戦的な態度になっている。

『そのとおりだ。お嬢たちも前に出ている。最前列で合流する。』

ヨダは僕から目を逸らしながら言う。僕はフードを目深に被り直す。そしてヨダの背中にぴったりとついて、人々を押し分けながら進む。そして、檀上を目の前に捉えられる最前列近くまでやってくる。

演説を行うための仮設のステージは、地面から少しだけ高くなっているだけで、庭園の櫂木や灰色の雪に、ともすれば飲み込まれてしまうようなちゃちなもののように見えた。

僕は窮屈そうに押し合っている群衆の中で、同志たちの姿を確認する。同志たちの髪には、灰色の雪が降りかかっている。彼らは誰しもそれを振り払おうとはせず、じっと何かが起こるのを待ち構えている。ヨダのまっ黒だった髪もまた、みるみるうちに灰色に染まってゆく。だが彼は身動きひとつせず、まだ誰もいない檀上に焦点を合わせている。それは古い友人を思い出そうとしている、孤独な老人のようにも見えた。


 ミヤガワさんたちのグループが、少し離れた場所に見えた。彼女は雪の中で、自分の両方の頬をぴたぴたと叩いていた。気合いを入れているみたいに。そしてきょろきょろと、檀上や、人々や、庭園の櫂木を見渡した。彼女は僕と目が合うと、にこりと唇で微笑みのかたちをつくった。それは僕に向けられたものではなく、降りしきる灰色の雪が可笑しかっただけのようにも思えた。


 雪が強く降り始めた頃、ようやく檀上にスーツ姿の男が現れた。

男は、どの時代のどの場面にも適応できるような、時勢を憂う無責任なスピーチを、短く済ませた後で言う。


『本日は、オザワ先生がいらっしゃっています。オザワ先生、どうぞ。』


雪が降りしきる中で、献身的な拍手の音が轟く。僕は背筋が寒くなる。出し抜けに胃の中の物が渦を巻きながら喉まで駆けあがり、それをやり過ごす。オザワ元首相と呼ばれる男は、冬の小熊のような年老いた男だった。顔は黒く、瞼が厚いので、その焦点を見定めることができない。背後についていたスーツ姿の若い男が、その男の頭に雪が積もらないようにと黙って傘を差し出すが、その男はこれみよがしにその手を払う。恰幅の良い身体を持つその男は、冬眠を叩き起こされて山を降りてきた熊のように、血の巡りが悪いのか、のっそりとした動作で、檀上の銀色のマイクを握る。


僕は大きく深呼吸する。雪がひとひら、僕のフードの中に吸い込まれてくる。オザワ元首相が口を開くと、軽いハウリングが雪の中にこだます。それが、合図となった。


『国民の痛みを知れ!』


同志の一人が声にならぬ声で叫び、檀上に向けて片方の靴を投げつけた。

片方の靴は、戸惑うようにくるくると雪の空を舞う。それを追いかけるように、

ヨダと数人の同志が檀上に向って駆け出す。檀上の小熊は、何が起きたのかがまだわからないというような、呆気にとられたまぬけな顔をしている。宙を舞っていた泥だらけの靴が、心を決めたように落ちてくる。靴はまぬけな小熊の額に、美しくヒットする。雪の中で、大勢のざわめきが一斉に膨れ上がり、壊れたサイレンみたいな喚き声へと変わる。

雪の庭園が、激しく揺れる。ヨダがステージに片足を引っかけるようにして、ジャンプする。ヨダの長い手足が宙を気ままに舞う様子は、雪の中を羽ばたく一話のカラスを連想させた。

一瞬、ヨダが空を飛んでいるような感覚になる。


『行け!』


群衆の中から、悪意に満ちた怒号が飛び出す。ヨダが檀上に着地すると同時に、

狼狽する小熊の周りには、がっしりとした体格の黒服の男たちが集まってくる。ヨダは無駄のない身のこなしで、黒服の一人を殴りつける。同志たちの歓声と、人々の喚きや悲鳴が再び、轟く。次の瞬間には4、5人の同志たちが檀上に駆け上がる、が、ドラマティックな展開はそれまでだった。2秒後には檀上で、ヨダと駆け上がった同志たちは黒服の男たちに取り押さえられていた。轟音のようなざわめきが、雪に吸い込まれていくように急速に鎮まっていく。

ヨダは檀上で顔面を地面に押さえつけられて、細かく震えていた。顔面が見えないが、地面にはどろりとした血液と、何かの欠片が見えた。ヨダは一瞬で、顔

面を奴らに潰されたのかもしれない。檀上に駆け上がるタイミングを失っていた僕は、ミヤガワさんの姿を探した。怯える群衆が、一斉にあらゆる方向へ逃げ惑おうとする混沌の中で、僕は彼女を見失う。僕はもう一度、檀上を見上げる。押さえつけられた同志たちと、細かく震えるばかりのヨダを、なんとも思わないみたいに、オザワ元首相が、平然と再び、マイクを握ろうとしていた。有事に動じないカリスマを、その男は演じたかったのかもしれない。


『えー、皆様、落ち着いて』

オザワ元首相が薄気味悪い半笑いで、そう言いかける。


そのとき、彼女が飛んだ。


彼女は群衆の中から飛び出し、檀上に軽やかに飛び乗る。

いつの日か、僕の目の前で瓦礫の丘の上を飛んだときみたいに。津波を告げる海面の渦みたいに、おぞましいざわめきが雪の中に巻き起こる。檀上で震えていたヨダが、最後の力を振り絞るように顔をあげる。その顔はやはり血液にまみれている。

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