#17 少年、灰、演説 (1)
17.少年、灰、演説
自動車は休憩をはさみながら、数時間走り続け、ようやく僕たちの城まで辿り着く。
すでに空は明るくなり始めている。その間、僕は黒いフードを被り続けていた。同志たちと玄関のドアの前に立つと、シンドーがいつものようにドアを中から開けてくれる。
彼女はおかえりなさい、と僕や同志たちに話しかけるが、誰もそれに答えようとはしなかった。
彼女が、車に轢かれた猫を見るような目で僕を見た。僕はフードを取り払い、何かを言おうとしたが、身体が動こうとしない。
『ミゾグチ、話がある。』
ヨダが後ろから鋭い声で呼ぶ。僕は、シンドーがつくってくれるサンドイッチと温かいコーヒーを諦める。
僕はすぐにハヤサカの部屋に呼び出される。中央のソファにはハヤサカがワイシャツとグレイのベストを着た格好でけだるそうに座っている。僕は入口のドア近くにひとり立ち、ヨダが僕とハヤサカの中間に立った。
『報告はヨダに聞いた。』
ハヤサカは、雨を見つめるみたいに漠然と僕を見る。ヨダは厳しい表情を浮かべ、僕を睨んでいる。
『君の判断が、間違っていたとは言い切れない。』
ハヤサカは言葉を区切る。『どうして、刺した。』ハヤサカの言葉には、責め立てようとする響きはない。
『もし僕が、あのとき刺していなければ。』
僕は言う。『同志を追跡してきた韓国人は、必ず同志の何人かを捕まえていたでしょう。そして、ひどい目にあわせたはずです。』
それはまさに、僕があの男を刺した理由のひとつだった。ハヤサカは目を軽く閉じて、何かを考えている。ヨダが口をはさむ。
『それで、とっさに刺せるのか。』
ヨダの声は僕を怖がっているようにも思えた。
『刺せる。』
僕とハヤサカが、ほとんど同時に言う。僕は驚き、ハヤサカの顔を見る。ハヤ
サカはひどく可笑しそうに、口元を押さえる。出し抜けにヨダが僕のレインコートの襟に掴みかかった。ヨダは燃えるような目で、僕の顔を睨みつける。
『ナイフは、お嬢やお前を護るためにやったんだ!』
ヨダが僕を怒鳴りつける。言葉の最後が震えた。それは、僕を憐れんでいるしるしのようにも思えた。
『やめろ。』
ハヤサカが鋭い声を出す。ヨダは僕から手を離し、力なく俯く。ヨダの肩がせ
わしく震えているのがわかる。
『ミゾグチ。』
ハヤサカが言う。ヨダと対照的な冷静な口調に、僕ははっとする。何かを希
求するように、僕はハヤサカの目を覗き込んでしまう。
『私は、君のそういうところを評価しているよ。』
ハヤサカは打ち明けるようにして言う。
『だが今回の任務は情報収集、いわゆる下調べだった。戦争は、まだ起こさなくていい。君の力は、戦争が始まってからの力だ。私の言っていることはわかる?』
僕は、わかります、と答える。するとハヤサカは何かを深く考えるみたいに、ソファに足を組み、深く目を閉じる。しばらくの間、部屋の中に静寂が降りる。僕は、沖に流されたボートの上にいるみたいに不安になる。
いくらかの時間が通り過ぎた後で、ハヤサカは心を決めた合図のように、組んでいた足を振りおろす。かつ、と威嚇するような音がする。
そして静かに立ちあがる。
『ミゾグチが賽を投げてくれたのかもしれない。』
ハヤサカはヨダを見て笑う。
『君が連れてきた少年が、革命の賽を投げたんだ。』
ヨダは意味の無い暴力を受けたみたいな顔をする。
『もういい。』
ハヤサカが僕に言う。何かに満足したみたいに。
僕は静かに頭を下げて、ハヤサカの部屋をあとにする。部屋をでたところにシンドーが立っている。彼女は何かを言いたそうに、僕の目を覗き込む。魚を欲しがる子猫のようにも見える。どうして、と彼女の小さな唇が動いたような気がした。
『自分でもよくわからない。』
僕は思わず、冷ややかな声で答える。そのまま僕は、彼女を振り払うように廊下を突き進み、自分の部屋に戻る。泥や血液で汚れたレインコートをその場に脱ぎ捨てる。だがその瞬間に、脈絡なく僕は身につけているすべての服を脱ぎ捨てたくなる。春の蛇が脱皮するようにチェックのボタンダウンシャツとTシャツを次々と脱ぐ。それから濡れた黒いジーンズをもたつきながら脱ぐ。最後に靴下とボクサーパンツをくしゃくしゃにして脱ぎ去る。
僕は誰もいない部屋の中で全裸になる。目の前の窓の外には、薄い朝の光と雨が、僕をささやかに祝福するように輝いている。空気は微かに冷たく、耳を澄ますと地球が静寂の中で、ゆっくりと回転しているのがわかる。僕は裸の自分を鏡の前に晒す。そこには暴力を受けたばかりのような、ひどく怯えた少年がいる。少年の無防備な身体は何かの罰のように痩せていて、微かに震えている。
少年は、静かに僕を見ている。何か大切なことを伝えようとしているみたいに。




