#16 花火、2020年、ナイフ (3)
目を開けると、僕は見知らぬ壁の前にいる。
2020年2月の夜、僕は同志の男たちとともに韓国系電機メーカーの工場の敷地に忍び込んでいる。
『ミゾグチはここで見張っていてくれ。』
同志の一人がそう言うと、僕一人を残して、同志たちは工場の中に入っていく。僕は自衛軍のおさがりの黒いレインコートとフードを被り、ポケットにはヨダにもらったサバイバルナイフを忍ばせていた。ポケットの中でナイフの柄を握ると、僕の心臓は拍子木みたいに奇妙な音を立てた。不揃いな奇妙な音を鎮めるた
めに、僕は工場の壁一面に描かれた大画面有機ELテレビの広告を眺める。ほんの数年前まで、その有機ELテレビの商品名が日本のブランドだったと気がつく。
僕は思わず、そのブランドを口にする。思いのほか、情けない声がでる。子供の頃から馴染みのある、太陽を連想させるような名前だった。
そのとき、ハングル語の怒号が聞こえた。僕は息を止めて、飛び出すために腰と膝を低くする。雨が降る暗闇の中で、僕はその怒号の方向と、暗闇の向こう側の状況を探るために神経回路をこじあける。雨の一音、一音に耳を澄ます。そして一瞬の静寂の後で、今度は大勢が駆け出す音が響き渡る。その音の正体が、工場の内部から確実にこちらに近づいてくる。僕は工場の入口に身を屈める。向かってくるものたちを待ち構えるために。
『撤収だ!』
聞き慣れた同志の叫び声と同時に、入口から同志たちが駆け出してくる。彼らは全力疾走で僕の目の前を通過していく。瞬間的に、通る過ぎる人間の顔と数を確認する。潜入した同志たちが全員、無事に工場を出たと判断する。僕は、当たり前のようにポケットの中のナイフを握りしめている。
ようやく、本当にやりたかったことができるね、と自分の声が聞こえた気がする。
そのすぐあとで、入口から飛び出してきた作業着姿の男のふとももに、僕はナイフを突き立てた。雨が壁を打つのと同じように、ナイフは公正に、男の肉体を抉
るように思えた。雨の中を男の泣き叫ぶ声が轟く。男の足の肉を作業着越しに割き、素早くナイフを抜きとると、底の割れたインク瓶のように血液が地面に飛び散る。男は苦しそうな悲鳴をあげながら、バランスを崩し、頭から地面に倒れる。
僕は立ち上がり、男が反撃してくるかを判断する。同時に追跡する者が他にいないかを確認する。僅かに遠い場所から、騒々しいハングル語でのやりとりが聞こえる。この男の他には、近くに追跡者はいないと判断する。僕は、今、自分が刺した男を見る。
男はみるみるうちに雨にびっしょりと濡れ、下半身は血と泥にまみれている。男の目には涙が滲んではいたが、その目は僕に激しい憎悪を突き付けている。僕は男の血まみれの方の足を力いっぱい蹴り上げる。
男の悲鳴が、何かを讃えるファンファーレみたいに聞こえる。
同志の一人が、雨の向こう側から僕の名前を呼んだ。僕は黒いフードで顔を隠し、雨の中を工場のフェンスまで走りだす。
工場のフェンスを越えると、すでに同志たちはエンジンのかかった自動車に乗り込んでいる。僕が身体を後部座席に滑り込ませるより早く、自動車は発進する。ハンドルを握るヨダが厳しい声をあげる。
『何をやっていたんだ、ミゾグチ。』
苛立ちと不安が混じり、声は震えている。僕は車のドアがきちんと閉まっているのを確認しながら、ポケットの中のナイフを握る。
そこにまるで、もうひとつの自分の心臓があるみたいに思えてくる。それはもうひとつの脈を打ち、まったく別の血液を僕に与えてくれる。
『こたえろよ!』
アクセルを力いっぱい踏みながら、ヨダが言葉を強くする。
車内の同志たちは不吉な悪霊を見てしまったみたいに、深く目を伏せている。
『戦ったんだ。』
僕は静かに言う。僕は、黒いフードをとることをすっかり忘れている。僕の声は黒いフードの中で反響して、別の人間の声みたいに聞こえる。
『刺した。』
それが僕の口からでた言葉なのか、他の誰かが告げ口のように言った言葉なの
かはわからなかった。僕は黒いフードの奥に顔を隠し、眠るように目を閉じる。シンドーのサンドイッチが食べたいと思った。




