#16 花火、2020年、ナイフ (2)
それから、僕たちは建物の外にでる。
雨は何かの兆候のように、今にも止もうとしている。
『珍しいね、雨が降ってないみたい。』
ミヤガワさんが真っ暗な夜空を見上げ、ぐるぐると見渡しながら言う。
たしかに雨はほとんど降っていないように思えた。それでも時折、思い出したみたいに微かな雨粒が暗闇の中にふっと浮かびあがり、僕の頬を濡らした。
『今、何時だー。』
暗闇の中で、誰かが言う。開かれた玄関のドアからは、暖かそうな明かりが漏れ、さっきまでホールに集まっていた若者たちが、明かりに押し出されるように外に出てきている。
『23時30分。』
別の声が聞こえる。祝福を告げるみたいに。
『それじゃあ、みんなで新年を祝おうよ。』
ミヤガワさんが叫んだ。ミヤガワさんは建物から離れた場所で、ひとり、踊っているみたいにふらふらと夜空を仰いでいる。
大勢の若者が缶ビールや缶チューハイを手に、幸せそうに談笑を始める。僕とシンドーは酒が飲めないので、ヴォルビックのペットボトルを手に、それを酒にみたてて静かに飲んだ。次第に本物の酒に酔った何人かが馬鹿騒ぎを始める。真っ暗な夜空の下のあちこちで、遠吠えのような笑い声が起きる。僕とシンドーはどちらも、何も話そうとはしなかった。僕はシンドーの横顔を何度か見る。彼女の顔の火傷の痕が雨に濡れているのがわかる。誰かにキスされたみたいに。
そのとき、誰かが突然、花火を始める。
明るい緑色の閃光が、暗闇と雨を心地よく断ち切る。穏やかな歓声があがる。そしていろいろな場所で、様々な花火の色鮮やかな閃光が暗闇を照らし始める。たくさんの光が混じり合う光景は、ささやかなカーニバルか、懐かしく寂しげな縁日を思わせる。それは地上の雨を掻き消す合図のように、審美的な時間の流れだった。その瞬間、本当に雨が、止んだ気がした。そして、ひどく無防備な気分になった。
2019年12月31日11時59分、穏やかな歓声や色鮮やかな花火の閃光が、ひどく哀しいものに思えた。どうしてかわからないけれど、僕は泣きたくなった。誰かが大きな声で、カウントダウンを始める。夜空の下、花火の閃光の
中で、誰もが一斉にカウントダウンを唱える。
『ハッピーニューイヤー!!』
どこかでミヤガワさんが、喉をぴしゃんと潰してしまうような声で叫ぶ。穏やかな歓声は大きな波となり、激しくうねる。
『あけましておめでとう、2020年!』
遠くでミヤガワさんが、嬉しそうに花火をぐるぐると回しているのが見えた。
『あけまして、おめでとう。』僕は、隣にいるシンドーに言う。周りの歓声に掻き消されないように、はっきりとした声で言う。
『2020年だよ。』
『あけまして、おめでとう。』
シンドーの唇が、そう動く。彼女の声はあっという間に周りの歓声に、乱暴に掻き消されてしまう。彼女は恥ずかしそうに、両手で大切そうに抱えたヴォルビックのペットボトルを、何度も握り直した。
花火の現実性を欠いた色の閃光は、彼女の頬と瞳と火傷を、フィンランドのオーロラのように孤独で奇妙な色に染めた。僕は、彼女の声が聞こえていたというしるしに、静かに彼女に微笑む。
やがて、雨が強く降り始める。
2020年1月の朝、僕はヨダの部屋に呼ばれる。部屋のドアをノックすると、ヨダがどこか冷やかな声で、はいれ、と言った。
『まあ、そのへんに座ってくれ。』ヨダは窓際に立ち、畳の上を指し示す。仮設住宅とこの建物の部屋との大きな違いは、望むにしろ望まないにしろ、畳があるかないかだな、と僕は思う。
『渡しておきたいものがある。』
ヨダはそう言い、部屋の隅のカラーボックスを開く。そして、何重もの布に包まれたものを畳の上に置く。ごとりと重量のある音がする。ヨダは腰を下ろし、注意深くその布を取り払う。
『これから必要なものだ。』
ヨダがそう言い終えると、布の中からケースに入った15センチほどのサバイバルナイフが姿を現す。
最初、それは硬直した黒い深海魚のようにも見えた。あるいはどこかの機械
の部品みたいに見えて、僕にはまるで使いようがわからないもののように思えた。
『持っておくといい。』
ヨダは、まるで何かを諦めたみたいな抑揚のない声で言う。
これはなんだ、と僕はヨダに抗議するように言う。ヨダは右手で口を覆う。唐突に吐くのを堪えるみたいに。
ヨダは何かを深く考えている。それから、口を開く。
『これから戦争になる。お嬢を護るんだ。』
僕の心臓が不規則な音を立てる。僕は何かを言いかけて、止める。そして窓の外を見上げる。空は相変わらず灰色の雲で覆われ、きらきらと銀色の小雨が降り続いている。耳を澄ますと、雨が大気と擦れる音が心地良く響いている。僕は、目の前のナイフに手を伸ばす。
『ありがとう。』
僕の口からふいにこぼれた言葉は、意外にも感謝を伝えるものだった。
ヨダの目が、僕の心を希求するように揺れる。僕はナイフの柄を強く握る。僕は思い出していた。ハヤサカたちの爆破テロが起きるずっと前から、そして地震が起きるずっと前から、僕は暴力を欲していた。それは僕の外へ向けられる力でもあり、同時に自分に向けられるものでなければならないと考えていた。ハヤサカとヨダの革命や、ミヤガワさんの衝動的で破滅的な行動に心を惹きつけられたのも、僕がどこかで、息をひそめた暴力のようなものの傍に寄り添うことを求めていたのかもしれない。シンドーの顔の火傷の痕が、なにかしら公正なもののように見えるのも、それが僕の求める暴力の痕跡そのものだからなのだろう。
僕はサバイバルナイフのケースを外す。
不愉快な笑いのように刃が反射する。僕は瞑想するみたいに、静かに目を閉じてみる。息をゆっくりと整える。今、僕の手の中にある重力が、この先、どのように僕の世界を変えていくのかを考える。
それはまるで、世界中の雨を止ますことができる力を、手に入れたみたいだった。僕は、手の中にその重力を感じながら、自動的にその刃の先に指を当てようとする。僕はそこで、目を開ける。




