#2 亡骸、トイレ、約束
2. 亡骸、トイレ、約束
僕が住む仮設住宅の集落は、旧市街北部の平野に、半年前に自衛軍によってつくられた。
南部の海岸沿いに広がっていた旧市街一帯は、地震のあった日に消えた。僕の故郷と、僕が17年間生きてきた痕跡は、何の予告もなく二度と取り戻せないところへいってしまったのだ。僕のVAIOも、ルイガノの自転車も、伊坂幸太郎の文庫も、おそらく今は、遠く暗い地面の底でばらばらになっているか、あるいは津波によって海底の見えない巨大な渦にひきずりこまれているだろう。
そしておそらく、僕の父親と母親の亡骸も、遠く暗い場所で、ひっそりと彷徨い、長い時間をかけて苦しみぬく。今でもよく僕は、森の奥の泥のように肉が黒く溶けた父親と母親の亡骸を想像する。
そのたびに、仮設住宅の共同トイレに駆け込み、暴力的嘔吐や下痢と戦わなければならなかった。
そのときの排泄はまるで自分の肉体の一部が何かの拍子にちぎられていくように思えた。
僕はトイレの中でがたがたとみっともなく震え続け、拷問を受ける捕虜のように、喚き、泣いた。
そういう経緯もあり、僕はこの仮設住宅の集落ではどうやら、(両親を失い、精神がおかしくなった可哀そうな高校生の男の子)として取り扱われている。
悪くない。
もし地震が起こる前に、そういう扱いを受けるような状況になっていたとしたら、僕は断固拒否して、インターネットでナイフを購入して、近所の子猫の桃のように柔らかい首筋か、あるいは自分の手首にその刃をふっと差し込んでいたに違いない。
けれど、今僕がいる場所は違う。
この場所は、(両親を失い、精神がおかしくなった可哀そうな子)であふれている。
ある意味においては、僕を含め彼らは、古い時代からやってきた大人たちのシステムから解放されたのだ。そういう意味だけにおいて言えば、僕たちは素晴らしい場所に連れてきてもらえたのだといえるのかもしれない。そういう意味だけにおいては。ただ、その代りにひとつの義務を与えられた。それは、この場所で生き続けるために、何かをしなければならないということだった。システムに所属しているだけで、何も考えなくとも、何もしなくともよい、という場所は、すくなくとも僕たちには二度と与えられることはないのだ。
僕は彼女と別れてから、仮設住宅の集落に立ち寄る。
くすんだ灰色をしたプレハブ小屋群は、砂利道を挟み規則正しく碁盤状に並んでいる。集落の入り口に辿り着いたときには、僕の身体はすっかり薄い汗の膜で覆われ、ふたつの肺は、古い家の梁のように音をたてて痛んだ。
入り口を通り抜け、十字路をふたつ直進したところに、僕のプレハブ小屋はある。
僕はでこぼこの砂利道のところどころにできた泥の水たまりを注意深く避けながら、自分の小屋を目指した。
小屋の10メートル手前で、小屋の前に立っている黒いポロシャツを着た男が見えた。
同じ小屋に住むルームメイトのヨダだった。
ヨダは、僕に気がついたというしるしに、こちらに向けて親密そうに左手を振る。僕は主人に呼ばれたときの犬みたいに呼吸を乱し、ヨダの元へ駆け寄った。
『ミゾグチ、どこへ行っていた。』
ヨダが僕に尋ねる。
彼の声は、映画の吹き替えのようによく通り、心地いい独特の低い響き方をしている。
別に、と僕は言いかけて、『散歩。せっかく雨が止んだから。』と正直に答える。
『どこまで歩いた。海岸まで行ったのか。』ヨダはまっすぐに僕の目を見て言う。
僕は背の高いヨダを見上げながら、黙って頷く。
『何かみつかったか。』彼の声は、何かを希求するような響きを含んでいる。
僕はしばらく瓦礫の丘と、ミヤガワさんのおしりを思い浮かべてから、やはり黙って首を横に振る。
そうか、とヨダは抑揚のない声で答える。
『それはそうと、お嬢を見なかったか。』
ヨダはいつも、親愛をこめて彼女のことをオジョーと呼ぶ。
『ミヤガワさんなら、海岸の近くで会った。』
僕はまだ、彼女のつきあげられたおしりの記憶を貪っている。こればかりはどうしようもない。
『お嬢は、何をしていた。』
僕は、さあ、と首を傾げる。
本当に、僕は彼女の普段の行動や思想には特に興味がないのだ。
(身体には興味がないわけではない。)
『きっとお嬢も、ミゾグチと同じ理由で海岸まで歩いたんだろう。』
ヨダは何かを打ち明けるみたいに言う。
『ヨダさん。ちょっといいかな。』
ヨダは、何か用かい、というしるしに、僕を見て短く瞬きをする。
『ミヤガワさんが言っているのだけど。』僕は呼吸を整えるために息をつく。
それから、口を開く。
『雨が止んだから、これからバーベキューとキャンプファイヤーをやろう、って。』
ヨダは回路を間違えたみたいに沈黙する。
そして思い出したように顎の無精ひげに触れる。
何かを深く考えるみたいに。僕はあらゆる沈黙に対し耐えられる才能を持っている。
いいよ、ヨダさん。じっくり考えてほしい。彼女と違ってあんたは育ちのいい常識ある人間だ。
存分に悩んで、彼女を止めるなら、止めてくれたっていい。僕は断るのが面倒くさくてオーケーしたまでだ。あんたの判断に従おう。さあ、現実的かつ物理的に可能ではないと、あんたが判断するんだ。と、僕は沈黙の間ずっと考えを巡らせていた。だが、時間をかけてヨダの口からでてきた言葉は、僕の期待を春の空にあがる煙のように軽やかに吹き飛ばしてくれた。
『面白いと思う。俺も力になる。』
ヨダは昂る気持ちを抑えるように、大きく深呼吸する。
僕は無意識に軽くため息をつく。
『ミゾグチ。キミだってきっと、彼女に手伝うって約束したんだろう。』
僕は、はっとする。思わず、よだれが飛び出しそうになる。
『したかもしれない。』僕は言う。ヨダは興味深そうに僕の顔を覗きこむ。
『そうだろう。お嬢のたのみ事なら、キミはイエスと言うに違いないから。』
どうしてこの男は、僕のパーソナリティを理解しているような話し方をするのだろう。僕は次第に、ヨダに腹が立ってきていた。それに、とヨダは口を開く。
『お嬢もきっと、キミだからそういう話をしたんだと思う。』
それってどういうことだ?
『そして、お嬢は途中で弱気になる。ほぼ間違いなく。そのときは、俺とミゾグチがお嬢の代わりに火を起こすんだ。俺の言っていることはわかる?』
わかる、と僕は言った。それにしてもヨダは、人を分析するのが好きなんだなと僕はなかば呆れていた。
『今にも、もうやめるとか言い出すかもしれないぜ。言い出したのは自分なのに。』
ヨダは楽しそうに首をすくめる。
『そんな感じだったな。』
僕は、火について語っていた彼女のことを思い出す。
『でもお嬢の本心は、やりたいんだよ。ミゾグチもそう思ったんだろう。』
ヨダの言っていることが煩わしくなってきたので、僕は適当にヨダを無視することに決めた。
『今から、火をおこすための木を集めなくちゃいけないんだ。自衛軍キャンプの向こう側の倉庫へ行ってくる。』
僕は、ヨダの話がうまく聞き取れなかったふりをして、プレハブ小屋の引き戸に手を伸ばす。『僕は軍手をとりにきたんだ。』
僕はヨダの脇をとおり、小屋の中に入る。小屋の中から、湿った煙みたいな空気が、外気に向かって意思をもったようにふわりと移動する。小屋の中には二段ベッドと、ダンボール箱がふたつだけ置かれている。ふたつのダンボール箱は、しつけられた犬のように、静かにそこにある。ヨダは僕の背中越しに小屋の中を覗きこみ、口を開く。
『俺のダンボールの一番上に軍手がたくさんある。使うといい。軍手は復旧作業のときに、たくさん配るからな。ストックしてあるんだ。』
『ヨダさんも来てくれるんだね。』僕は靴を脱いで小屋の中に入りながら、ヨダに確認する。
『行くよ。ふたりのほうがいいだろう。』
ヨダは嬉しそうに答える。意味の無い冗談を言うときみたいに。僕は振り返る。そしてヨダの目尻に浮かびあがる、地下水脈のように深い皺を見る。
僕は、こんなに嬉しそうに他人に対して笑えない。あるいはこんなに誇らしそ
うにも、笑えない。
僕はヨダに対してコンプレックスみたいなものを感じる。