#12 狩猟犬、王様、女の子 (2)
さらに真夜中の山道を1時間ほど走り続けたあとで、ようやく自動車は停車する。
『20年前に国から捨てられた、保養施設の跡地だ。なんとかピア。』
ヨダは自動車のエンジンを切る。
動物の激しい嘶きのような振動と、ヘッドライトの不当な暴力のような明かりが消え去ると、自動車が停車した場所は暗闇に覆われ、しんと静ま
り返った。
僕はフロントガラス越しに、濃い暗闇が降りた外を見渡す。山や森に囲まれた
小高い丘のような場所に、僕たちの自動車は停まっている。夜空の下、遠くの松林が風と雨に煽られて、こちらに向って歩いてくるみたいにみえた。
『向こうの建物だ。』
ヨダは、運転席側の窓ガラスをかつかつと爪で叩いてみせる。僕はヨダの身体越しに、窓ガラスの向こう側を覗き込む。そこには、古い映画のセットを思わせ
る意匠の、洋館をモチーフにした建物が聳え立っている。真っ暗な夜空と黒い森に囲まれたその大きな建物は、不完全な夢から抜け出てきたくらい、ひどく奇妙でリアリティがない。巨大な壁に描かれた一枚の絵を見ているみたいに。
『なんだい、あれは。ホテル?』
僕は力なく言う。
『もともとは、そういうものだったらしい。でも2000年前後に国から民間に投げ売られて、そのまま放置され続けている。地震が起きた後は、なおさら誰が管理しているのかわからなくなった。だからちょっと、拝借している。』
ヨダは自動車のドアを開けて、車から降りる。降りしきる細かい雨は、黒いインクのようにヨダの服を暗く染めた。
『不法占拠。』
僕は心の中で指摘した。ヨダは後部座席のドアを開けて、ミヤガワさんの腰
に触れて彼女の身体を揺する。彼女は長い呻き声のあとで、さっと身体を起こす。彼女は不安そうに窓の外の風景を見渡してから、ヨダの顔をじっと見る。
『ここが、今のヨダの家なんだね。』
彼女は何かを希求するみたいに言う。そうだよ、とヨダが穏やかな口調で答える。
僕たち3人は自動車から降りて、その建物の入口まで歩く。その間ずっと、無尽蔵に空からこぼれてくる雨は、僕たちの傘を音もなく鈍重に打ち続けた。雨粒の重みは、僕に眠気をもたらせた。僕は歩きながら、唐突に短い夢のようなものを見る。古い時代の王様が、宮廷画家に何かの絵を描かせている夢だった。静まり返った広い部屋には、他には誰もいない。その王様は年老いていて、ひどくくたびれた顔をしている。そして皺だらけの両手を差し出し、何かを懸命に語っている。宮廷画家は白髪まじりの優しそうな紳士で、王様の言葉に耳を傾けながら、静かに頷いている。僕は首を大袈裟に横に振って、その夢を遠ざけた。虚ろな意識を現実に引き留めようと、僕は建物の相貌を見上げる。それは、黒い森の中にぽっかりと浮かんだ空洞のように漠然としていた。そして、その洋館のような意匠はまさしく小さな城のように見えた。僕は、星の脆い輝きを見るようにその建物を見た。白っぽい壁や窓枠には、簡潔な装飾が縁取られている。雨に濡れる大きな屋根は、夜空の下でぼんやりと藤色に光り輝いている。それらは、僕の心を微かに浮き立たせた。そんなに遠くない過去の人々が、この建物にどれだけの敬意を払い、親しみをもっていたのだろうかと、僕は想像した。それは孤独の王様が、喪われた国の城を宮廷画家に描かせた懐かしい一枚の絵のように思えた。
玄関の扉は、暗闇の中でもくっきりと黒く光り、しつけの良い犬のようにぴくりとも動く気配はなく固く閉ざされている。僕は広いポーチの一段下にひとりだけ降りて、インターホンを押すヨダのまっすぐな背中と、その隣で不自然なくらい浮き立っている彼女の背中をひとしきりみつめた。彼女が少しずつ、元気になっていくのが分かった。あるいは元気になっている振りをしているだけかもしれない。いずれにせよ、彼女から暗い感情が流れ落ちてゆくようで、それがヨダのおかげであったにしろ、僕はじゅうぶん満足しなければいけないと思うようにした。でも正直なところ、僕は正当な理由もなく彼女に、苛立ちを感じ始めていた。どうしようもなく、怒りのような苛立ちが喉の奥に熱い塊をつくった。
鍵を外す心地いい音がして、玄関の黒い扉が開く。
『おかえりなさい。』
扉の隙間からまっ白い明かりが漏れ、僕たちと雨を照らした。扉を開けてくれたのは、中学生くらいの可愛い女の子だった。女の子は秘密を打ち明けるみたいに、うつむき加減でそっと扉を開き、僕たちを建物の中に迎えいれる。
『どうぞ、中へ。』
女の子の声は、ボブ・ディランみたいにかすれている。
『ありがとう、シンドー。』
ヨダはその女の子に向って、親密そうに礼を言う。シンドーと
呼ばれる女の子は、ぷいと横を向き、小さな声で、別にいいよ、と答える。女の子の頬には、ほのかな赤みがさしている。不意をつかれて照れているみたいに。僕とミヤガワさんは、傘をたたみながら建物の中を見渡す。1階部分は玄関とホールのような広いスペースがつながっている。天井は高く、建物の2階と吹き抜けになっている。高い天井の中央には無暗に豪華な照明が灯り、その明りは建物の内部を余計に廃墟みたいに見せた。1階の奥にはカウンターや大きなソファが並んでいるのが見えたが、そこには誰もいない。床にはカマンベール・チーズみたいな色のカーペットがまっ平らに敷き詰められているが、ところどころが腐ったみたいに黒ずみ、汚れているのがわかった。人間が住み着いていると
いうより、鼠や鳩や虫なんかが棲みついていると言われたほうがしっくりときた。
『こっち。ハヤサカさんが、待ってる。』
吹き抜け部分を駆け上がるようにしてつくられた階段を、シンドーと呼ばれる女の子が昇りながら言う。すたすたと、僕たちを拒否するようにひとりで階段を昇り始める。
『ちょっとだけ待ってくれ、シンドー。』ヨダが階段の下から女の子を呼び止める。『俺の友達を紹介したいんだ。』
シンドーは少し戸惑ったみたいに階段の途中で立ち止まり、階段の下にいる僕たち3人のほうを見下ろす。シンドーは、あどけない可愛いらしさを残したまま、どこか暗く洗練された審美的な美しい顔立ちをしていた。髪は黒く、毛先は丁寧にすかれ、前髪が長いショートスタイルだった。そして、右のこめかみから額にかけて、ケロイド状の火傷の痕があった。彼女がうつむくと、髪がその痕を隠すが、階段の下から彼女の顔を見上げると、それはくっきりと、公正すぎる照明の元に照らしだされた。彼女の大きな瞳の脇に、黒と桃色の混じった肉が、乱暴に掘り起されたままになっている。森の奥の泥の溜まり場で、食い散らかされた動物の死体みたいに。そしてその無残な傷跡が、彼女の可愛らしさや美しさを激しく掻き立てていた。それはグロテスクなものではなくて、きわめて清潔で、彼女
を護っている痕のように見えた。死体に覆いかぶさり、それを護る森の泥みたいに。彼女の火傷の痕は、なにかしら正しいもののようにさえ思えた。彼女は薄い唇を微かに噛んで、僕たちをただ静かに見下ろしている。学校の制服らしい濃い緑のブレザーを着こなし、短いスカートの前に両手をおき、僕とミヤガワさんの顔を交互に見ながら、何かを考えている。僕は彼女の顔の火傷の痕の次に、彼女の白く細いふとももを見て、また興奮した。彼女の脚は、雪の積もった丘陵のように滑らかで、汚れひとつない、無防備で崩れやすい風景のように思えた。
『よろしくね。』




