#1 焚き火、チノパン、クリームシチュー
1.焚き火、チノパン、クリームシチュー
『まあ、聞いて。ねえ、おねがい。あなたじゃないとだめなの。』
僕は、この女が嫌いだ。
『なんですか。いったい。』
けれど、きちんと話を断れない僕自身が、なにより嫌いだ。
『優しいのね、ミゾグチ君。さすが。さあ、こっちへきて。』
さすがの意味が、よくわからない。
僕は会話の不明点を質問しようとしたが、どうせうまく伝わらないだろうと諦めて、彼女の言うとおりにする。
『あのね、焚き火を起こすの。今から。』彼女は誇らしそうに言う。
『今から。』僕は、彼女の前に積みあげられた木材に向かって言った。
木材はどれもくたびれていて、色や大きさもばらばらだった。
まるで何かの小動物たちの死骸が折り重なっているように見える。
『そう、今から。』彼女は僕を見てふふんと笑った。『さっき、ラジオで聞いたの。今夜は珍しく雨が降らないそうよ。それでね、たまにはみんなで、バーベキューパーティーでも、と。』
彼女はにこにこしながら、人差し指を僕の目の前に突き立てる。
そこにある透明のスイッチを軽く押すみたいに。
僕は彼女から目を逸らした。
そう、僕は彼女の笑った顔が苦手なのだ。
『でも、この木材は濡れていますよ。これじゃあ火はおこせない。』
僕は焦点を目の前の木材に合わせて、自分の気持ちをごまかす。
『残念だけど。』
僕は、彼女にではなく、小動物の死骸みたいな木材に向かって申し訳なさそうに言った。
『そう。それでね。ここからが、あなたへのお願いだったりするわけで。』
僕が振り向くと、彼女は歯をみせて、また僕に笑いかける。
僕はどういう顔をすればいいのか混乱して、おそらく薄気味悪い笑顔をつくり、彼女の声に無言で答えた。
『自衛軍キャンプの向こう側に、古い倉庫があるのは知っている?小さな体育館みたいな。』彼女は東の空を指さして、僕に聞いた。
知っている、と僕は答えた。
『あの体育館みたいな倉庫はね、前はホームピックだかコーナンだか、とにかくどこかのホームセンターが、商品を置いておくために使っていたらしいの。でも地震があってからは、商品の代わりに、この街のいろんな残骸を一時的に集める場所として、使われているらしいのね。行ったことはある?』
『覚えていないけど、あると思う。』
僕は、自分でもよくわからならない回答をした。
『なら、大丈夫そうだね。』彼女は感心したように頷く。
そして、満足そうに東の空をひとしきり眺める。
僕も彼女と同じように、東の空を眺める。
東の空は、冷たいバニラシェイクのような、乳白色の分厚い雲で覆われている。
彼女は雲を見つめながら、いったい何を感じ取ろうとしているのだろう。
『それで、倉庫がどうかしたんですか。』
僕は、彼女の横顔に焦点をあわせる。
彼女は僕のほうを振り向き、僕を安心させるように、にこりと笑う。
何の予告もなく、背中がぞくぞくした。
『あの倉庫には、屋根があるのね。まあ当たり前だけど。それに倉庫の周りには、救援物資を保管するための、テントがあると思う。つまり、あの倉庫にあるものは、雨に濡れていない。そしてそこには、たぶん焚き木になりそうなものが、転がっているはずなんだ。』
彼女はそう言い終えると、声をだして楽しそうに笑い始める。ひとりで。信頼できる親友同士が、冗談を言い合うときみたいに。
彼女の頬は、みるみるうちに心地いい薄いピンク色に染まっていく。
けれど残念ながら、僕たちは親友ではない。
僕は再び、自分でも死にたくなるようないびつな笑顔をつくり、彼女にあわせて笑ってみる。
『ハハハ。』
『要するに、焚き木をとって…いや、拾ってきてほしいわけ。おねがいできる?ミゾグチくんに。』
彼女は(申し訳なさそうなふりをして)、僕の目を覗きこむ。
僕は思わず、彼女の顔をじっと見つめてしまった。
工芸品のような小さなあごと額。
メイクはほとんどしていないのに、白く透きとおっている柔らかい肌。
薄いピンク色の頬と、無防備な唇。
笑うと覗く小さな前歯。
小さいけれどかたちのいい鼻。
そして大きな瞳と、いつも微妙に震えているまつげ。
目の前にいるのは、僕とは別の世界に住んでいるような、美人で年上の女性だった。
僕は彼女から目を逸らしながら、黙って二度、頷く。
彼女が嬉しそうに笑って手を叩いているのが、視界の端のほうに小さく見えた。
『ありがとう。ありがとう。ミゾグチくん。それじゃあ、よろしくね。』
彼女はそう言って、唐突に僕の視界から消える。
僕は何かが不当に失われたみたいに、振り返る。
『ミヤガワさん。まって。』
彼女は、瓦礫の山を登り始めている。僕の声は、おそらく彼女には聞こえなかったのかもしれない。
彼女は僕に背を向け、黙々とコンクリートの瓦礫の山を、足場を確かめながら
登っている。
僕は息をついて、あたりを見渡す。僕たちは、無数の巨大な亀裂が走ったアスファルトの道の上にいる。道の両側には、かつて建物だった瓦礫たちが、静謐を護っている。
気が遠くなるほどのたくさんの瓦礫たちは、かつての住人らを忘れて、ほかの何かをじっと待っているように思える。
彼女はその瓦礫のなかで、特に大きな瓦礫の丘に、細く小さな身体で登り始めた。
『危ないですよ。』
僕は大きな声で、一応注意してみた。大きな声をだしたのは久しぶりなので、自分で自分の声に情けないくらい戸惑った。
『だいじょうぶだよ、ミゾグチくん。』
彼女は、僕におしりをつきだして言う。
下着のラインがベージュのチノパンにくっきりと浮かんでいたので、僕は興奮した。僕は、他の誰かがこの光景を覗いていないかと、きょろきょろ周りを見渡す。
おそらく僕の頬は今、腐ったりんごのように赤黒くなっている。
あたりには誰もいない。色を失った瓦礫の平野と、亀裂だらけのアスファルトの道が、世界のすべてだ。時々、思い出したみたいに生暖かい風が瓦礫の平野をわたる。
僕は深呼吸してから、目の前の瓦礫の丘と、彼女のおしりを見上げる。
彼女は小さな声で、よっと、よっと、と言い、まるで羽虫が飛ぶように瓦礫の丘を登る。僕は彼女の運動神経の良さを羨ましく思いながら、彼女のおしりとふともものラインばかりを目で追う。
そしていつのまにか彼女は、その丘の頂上に登りつめている。
『ねえ、ミヤガワさん。』
僕はとりあえず、彼女の名前を呼んでみる。
あとは彼女から、何かを自信たっぷりに話しかけてくれるだろうと思った。
けれど彼女は、そのまま瓦礫の頂上で黙っている。
おそらく僕は無視されている。僕は、なんだかひどく申し訳ない気持ちになる。
彼女は瓦礫の上で、すっと背筋を伸ばし、胸をつきだし、東の空を見ている。彼
女のまつげが微妙に震えている。風がふき、彼女の長い髪がバニラシェイクの空に広がる。
アスファルトに広がる、無数の亀裂と同じように。彼女は手の甲で髪を整えながら、ゆっくりと足元をみつめる。
そしてようやく、思い出したみたいに僕を見る。
『ずっと雨が降っているとさ。なんだかわたしも、気分が悪くて。』
彼女は瓦礫の丘から、僕を見下ろして笑う。
『地震のせいですよね。地殻変動の熱で、日本列島上空には恒常的に台風が停滞しているから。』
僕は答える。
『知ってる。』彼女はつまらなさそうに僕を見る。『雨が止んだのは、何日ぶりだろうね。』
『雨が止んだのは。』
僕は復唱する。そして、雨が降らなかった日を思い出そうとする。
すぐには思い出せなかった。僕の記憶の中の空は、いつも湿った不吉なねずみ色をしている。
まるで空の向こう側で、何か巨大な建造物が燃え落ち、そのせいで空を覆い尽くすような灰と煙の何重もの層が、上空に流れてきたみたいに。気がつくと僕は、気味の悪いうめき声をあげていた。
『雨が止んだのは、3週間ぶりだね。』
彼女は、僕と瓦礫たちに向かって、明るい素敵な声で言う。
3週間、と、僕はまた復唱する。
『ちょうど3週間前、長野から野菜がたくさん届いた日よ。ミゾグチ君は覚えてる?その日の午後、仮設住宅の炊き出しで、わたしたちはクリームシチューをつくった。雨が止んでいたから、大勢の人が仮設住宅から顔をだして、クリームシチューの美味しそうな匂いに、鼻をくんくん鳴らせていたよね。わたし、あの日のことをよく覚えてる。』
僕は3週間前の、クリームシチューの心優しい匂いを思い出そうとしていた。だが思い出すのは、彼女の発案で大量のキャベツの破片がぶち込まれたクリームシチューの、哀しげな姿だった。べしゃべしゃにへたったキャベツは、緑色の新聞紙を連想させた。
『あれは、美味しかった。』
僕は彼女の顔を眩しそうに見つめて言った。
『でしょう。』
彼女は幸せそうな声でふふんと笑った。
『だから、わたしは思うんだけど、雨が止んだ日はわたしたちにとって特別な日にしていこうと思うの。わたしの言っていることはわかる?』
彼女は両手を腰に当てて、誇らしそうに僕を見た。
『わかる。』
よくわからなかったが、異議を唱えると怒られそうだったのでしなかった。
『だから今日は、みんなで焚き火を起こそうと思ったの。焚き火はね、本当に人の心を温めてくれる。ミズグチ君はそうは思わない?』
僕は黙って頷いた。しかし僕にとって、火は不吉の象徴でしかないような気がする。
『ミヤガワさんは、どうしてそんなふうに思ったんですか。』
僕は思わず質問した。彼女は驚いたような顔をした。
しかしすぐに、いつもの穏やかな表情に戻り、はっきりとした口調で話し始める。従順な犬に何かを教えるときみたいに。
『わたしは思うんだけど。』彼女は両腕を胸の下で組む。
『火は、人を温めるために存在しているの。ずっと昔から。それこそ、わたしやミゾグチ君が生まれるずっとずっと前から。わたしたちは、火を操っているように見えるけれど、本当は火は、いつもただ、そこにあるだけなの。何かを燃やし、何かを温めるために。』
そう言い終えると、彼女は思い出したみたいに前髪を手ですくう。そして何かを深く考えるみたいに、唐突に黙り込む。彼女はもう、僕を見てない。
僕と彼女と瓦礫の丘の間に、沈黙が降りる。僕はこういった類の沈黙には慣れているので、そのまま待つことにした。
『でも、そうじゃないのかもしれない。』
1分後に、彼女が呟く。
『地震があったあの日以来、火には、地獄のイメージしかない人だっていると思う。地震直後の、壮絶な生活を思い出してしまう人だって、いるかもしれないのよね。』
彼女は、居心地悪そうに首を振った。
『どうしようかなあ、もう。』
彼女は眉間に微かな皺をつくり、窮屈そうに笑う。
『焚き火を起こしましょう。せっかく思いついたんだから。』
僕は、彼女を見上げて言った。
今度は無視されては困るので、僕は怒鳴り声みたいな大きな声をだした。静謐を護っていた瓦礫たちと瓦礫の丘は、僕の声をびりびりと食べて、大地の深い部分に吸収させた。
彼女は僕の顔を見てにっこりと笑う。無防備なピンク色の歯ぐきが、ちらりと見えた。
そうだよね、と彼女は親密そうに僕の顔をみる。
『きっと、楽しい焚き火になると思う。わたしには、そんな気がするんだ。子供のころのはじめてのキャンプファイヤーみたいに。友達同士で、そこぬけに楽しくて、そこぬけに誇らしいと、みんなが胸を焦がすような。』
みんなが胸を焦がすような、僕は彼女の言葉をまた復唱する。瓦礫の丘の上で妙にハイになっている彼女を見上げながら、僕は自分自身の血が流れる音に耳を澄ましていた。
それは瓦礫の世界の中で誇張されて響く。何かの予兆みたいに。
『僕、行きます。』僕は目の前の瓦礫の丘に向かって、低い声で告げた。『さよなら。』
僕は振り返って、足元のアスファルトのひびに焦点をあわせた。
『ミゾグチ君、ありがとう。』
瓦礫の丘の上から、彼女の声がした。
まるで聞こえないふりをして、僕は彼女に背中を向けたまま、歩き始める。
いつのまにか、ひどく出し抜けな興奮が新しく僕を支配している
ことに気がついた。これまでに感じたことのない奇妙な興奮だった。
人間ではない何かが、自分の脳に宿り、きままに暴れているような昂ぶりだった。僕は自分が、そのまま消え失せてしまうような気がした。
とりあえず、僕は走った。
彼女は、走る僕の背中をみて、何を感じとっていたのだろう。