#11 クリスマス・イブ、流木、騎士 (2)
『ヨダ、さん。』
僕は、離れた場所から声をかける。ヨダは僕に気がついて、驚いたように
無言で口を開ける。僕は傘を持ったまま、堤防沿いに駆け寄る。
『ミゾグチ、元気にしていたか。』
ヨダは低く、穏やかな声で言った。僕の心にすっと馴染んでくる、親密な声の響きだった。
『それはこっちのセリフだ。いったい、どうしてたんだよ。』
僕は堤防の下から、ヨダを見上げながら言う。ヨダは堤防の上から、懐かしそうに僕の目を覗き込んでいる。色の褪せた家族の写真を見るみたいに。ヨダの表情には、爆破テロの夜に見せた冷酷で暴力的な影は無い。
『あれから、いろいろあったんだ。いろいろな。でも間違ったことをしていたんじゃないぜ。』
ヨダは深く、息をつく。長い間会わないうちに、ヨダは幾分痩せているように見えた。それに、無精ひげが顎から頬にかけてやけに目立つようになっている。
『今、どこにいるの。』
僕は訊いた。ヨダは少し考え込むように視線を彷徨わせたあとで、はっきりと答える。
『今は、ハヤサカさんたちといっしょにいるんだ。』
『まだ何かをしようとしているの。』
僕は抗議するように言う。
『まあ、そういうな。』
ヨダは堤防から飛び降りて、僕の傍に着地する。
『あの人がやろうとしていることは、必要なことだ。俺は、その力になりたいと思う。どうしても俺は、あの人といっしょに、成し遂げたいんだよ。』
ヨダの言葉には、揺らぎない確信が含まれている。遠くの波の音が、奇妙に誇張されて響いている。
僕はヨダを見上げて、復唱する。
『成し遂げたい。』
『そうだ。』
ヨダの表情は、拍子ぬけするくらい穏やかだった。唇の端には、清潔な冬の雨
みたいな柔らかい微笑みがみてとれる。
『俺の、仕事なんだ。』
ヨダは自分のアイデンテティを語ろうとしているのかもしれない、僕は思った。僕は、別の質問をする。
『ミヤガワさんが心配している。連絡はとっていないの?』
だしぬけに僕の声は、小さくなって震えた。音もなく降る細かい雨と波が、僕の声を吸い取ってしまったようだった。
『連絡はとっていないんだ。』
『どうして。』
そのとき僕は、コンプレックスみたいなものを感じた。
『また、会いに行くつもりだ。ミゾグチから伝えておいてくれよ。俺は元気だって。』
ヨダは、境界線のわからない水平線みたいに、あやふやに笑う。僕は、どうしようもなく怒りのような感情が発露するのを、抑えることができない。
『なに言っている。』
僕はヨダの目をまっすぐに見る。細かい雨の煌めきが、ヨダの瞳に不規則な白い光を反射させている。
『無責任じゃないか。ちゃんと説明してやってくれよ。』
僕は蒸気機関の機械みたいに口や鼻から濃い白い気体を巻き上げるようにして言う。ヨダは息をついてから、答える。
『わかったよ。必ず近いうちに、俺はお嬢に会いに行く。そしてあの日から、俺がどこで何をしていたか、説明する。これでいいか。』
僕は頷く。
ヨダは声をだして笑って、僕の肩を親密のしるしとして叩く。
『大変だったな。ミゾグチ。君には、いろいろなことを背負わせてしまったみたいだ。』
『別に。』
僕はかすれた声で答える。
『知ってるか、ミゾグチ。』
気がつくとヨダは、少しずつ後ろにさがり、僕から遠ざかっている。
『何を。』
僕は尋ねる。
『今日は、クリスマス・イブだってことをさ。』
ヨダは、誇らしそうに笑う。
僕は黙って首を振る。ヨダは僕の顔を見ながら、にこりと笑う。その笑顔は、僕の心に馴染んだ。
『俺はサンタクロースになって、会いにいくぜ。』
ヨダは間抜けなセリフを叫んだ。そして、楽しそうに雨の中で笑った。それは僕にとって、初期のヨダの記憶そのものだった。明るく、頼りになって、よくもわるくも生真面目な年上の友達の姿だ。
『それじゃあ、俺は行くよ。』
ヨダはもう一度、僕の目を懐かしそうにのぞきこんだ。そして僕に背中を向けて、堤防沿いにずっと西へと歩き去った。
僕はひとしきりヨダの背中をみつめていたが、振り返る素振りはなかった。
僕もまた、来た道を堤防沿いに引き返した。
堤防沿いを歩きながら、海岸に降り続ける雨と、海の沖のほうで降り続ける雨を交互に見つめた。
砂浜には、さっきまでは見当たらなかった、巨大な流木がうちあげられていた。
それは古い時代からやってきた巨大な水生生物の骨のように見える。僕はその生物のかたちについて、あれこれと想像に耽りながら歩き続けた。
仮設住宅の集落まで戻ってくると、世界を覆っていた寒さは、古い傷の痛みのように遠のき、和らぎ始めていた。僕はミヤガワさんのいる仮設住宅の小屋を訪ねた。
小屋の扉を丁寧にノックすると、しばらくして扉の向こう側から知らない女の人の声が返ってきた。
その声は不自然にくぐもり、僅かに冷ややかな口調で、僕が誰なのかを尋ねる。僕は緊張して答える。
『ミゾグチです。ミヤガワさんはいますか。』
扉の向こうから、今度は別の女の人の親密そうな声が投げられる。だが僕は、その声が何を言ったのかを聞きとることができない。冬の日の朝は、あらゆる他人の声がくぐもって聞こえるのだろう。
僅かに時間をおいてから、小屋の扉が少しだけ開く。
その隙間から、ミヤガワさんが顔を覗かせる。メイクは何もしていないように見える。まだ、眠っていたのかもしれない。僕は悪いことをしたと思う。
『何?ミゾグチ君。』
彼女は砂浜に降る雨みたいに、それでも柔らかく無防備に笑う。
そし
ていつもと同じように、彼女のまつげは戸惑うように震えている。
『ちょっと、大切な話があるんだけど。』
僕は、彼女のまつげの震えを見ながら言う。
『ミヤガワさんにとって良い話だよ。だけど、ここじゃ話せないことなんだ。』
彼女は薄い唇を僅かに噛む。そして扉の隙間の向こう側で、何かを考えている。
『わかったわ。あとからミゾグチくんのところに行く。』
『待ってる。』
僕は扉の隙間に向って手を振った。彼女は隙間の向こう側で、小さく僕に手
を振り返してくれる。小さな顎のすぐ下で、彼女の五本の指が幸せそうに揺れている。
僕はその光景を記憶にとどめようとする。でもその時の彼女は、ひどくくぐもった声みたいに、僕からは遠い時間の、虚ろな他人のように思えた。
僕は逃げ出すように、扉の前から走り去る。
おそらくヨダとの再会が、僕をいつのまにか混乱させているのだ。
僕は、彼女がまた、ヨダのものになってしまう日が来ることをずっと恐れているだけなのかもしれない。僕は何かを考えることが、苦痛になり始めていた。何かを考えるたびに、自分がひどく損なわれていくような感覚が、心を満たそうとしている。
午後になると、彼女は僕の小屋までやってきて扉をノックした。僕は彼女を部屋に入れる。彼女はメイクをしていて、髪もきれいに梳いて、左の耳の脇に束ねている。
『さっきはわざわざ来てくれたのにごめんね。』
彼女は寂しそうに笑う。
『私、ルームメイトの人たちとあわないみたい。今、すごくぴりぴりしてるんだから。きっとみんな、寒くて身体の調子が悪くって、いらいらしているんだね。』
そうかもしれない、と僕は自分も困ったみたいな表情で彼女に同意してから、彼女をベッドの上に座らせる。僕は彼女の隣にも床にも腰をおろさず、くっきりとした冬の光が差し込む窓に、背中を向けて立った。
『ヨダ…さんに会った。』
僕は秘密を打ち明けるように言う。その言葉を合図にするかのように、彼女の瞳に微かな光が横切る。
彼女は何かを言おうとするみたいに、口を小さく開くが、そこからは、かたちになった言葉はでてこない。
『本当だよ。今朝、海岸をずっと西まで歩いたんだ。そうしたら、ヨダさんは海岸の西の端で、堤防に登って海を見ていた。元気そうだった。それに昔みたいに、すごく親切そうにみえた。』
彼女のまつげが震え、ゆっくりと瞼がおりる。絹のカーテンが音もなく閉じるみたいに。それから、予告なく涙が流れる。僕は激しく動揺した。彼女は、それがなんでもないように手首の裏で涙を拭った。
『それは、本当なんだよね。』
彼女は僕に確かめるようにして言う。
もちろん、と僕は答える。彼女はベッドの上から、窓の向こう側の冬の空を嬉しそうに見上げる。おそらく僕は、窓枠か何かだと思われているようだ。
『よかった、生きていたんだね。』
彼女は、まるで冬の空に感謝するみたいにして言う。
『それで?』
彼女は冬の空と窓枠に向って訊く。僕は息をつく。
『ヨダは今、どこにいるの。』
僕は、短く咳ばらいをする。
『まだ、詳しいことは何も聞いていないんだ。でも今夜、ミヤガワさんに会いにくるって言っていた。』
彼女は深く、頭をさげる。
まるで眠りこけてしまったような格好になる。そして何も話さなくなる。何かにじっと耳を澄ましているみたいに。
いつのまにか、彼女は僕のベッドで本当に眠り始める。足を床に下ろしたまま、お尻から上の身体を猫のようにまるめて、シーツの上に横たわる。彼女の身体は、砂浜に打ち上げられた白い流木のように、時間から置き去りにされているようにみえた。そこに彼女はいるけれど、彼女はいないみたいだった。彼女の、くーくーと鳴く他愛ない寝息が、僕の部屋の中で幸せそうに響き続けた。僕は何度もベッドの脇に座り直して、彼女の寝顔を見下ろした。だが彼女の身体には、どうしても触れることができなかった。もう何ものも、彼女に触れてはいけないような感覚があった。
結局僕は、窓際に背をもたらせ、床に座る。
そして、彼女にもらったレイモンド・カーヴァーの文庫をぱらぱらとめくった。
世界は、幸せそうで審美的な彼女の寝息と、清潔で冷たい霧雨でできている。クリスマス・イヴの午後の静寂のなかで、僕はそう感じた。世界がゆっくりと軋みながら、時間を刻んでいくのがわかった。