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#10 ボブ・ディラン、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、海

 10.ボブ・ディラン、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、海


 歳月が流れ、冬が訪れる。


爆破テロがあった夜から、世界は何も変わらなかった。

空は相変わらず古い掻き傷のような雲の層で覆われているし、雨はほとんど毎日、降り続けた。

仮設住宅の人々の表情は暗く、時折、誰かが言い争う声や子供の泣く声が、まるで遠い時間から聞こえてくるみたいに、不自然にくぐもって響いた。あるいは止むことのない雨は、ずっと昨日の続きを、続けているようにさえ思える。

もしかしたら、地震があったあの日から、僕たちの世界の時計は止まってしまったのかもしれない。僕たちはもう、どこへも行けないし、何も選びとることができないのだ。世界は永遠に昨日の続きの輪の中をぐるぐるとまわっているのかもしれない。冬の雨は、そんな陰鬱な想像を僕にもたらせる。


 世界は何も変わらない。爆破テロが起きても、雨が毎日、降り続いたとしても。ただ、ヨダとハヤサカが姿を消しただけだった。

 

 冬の日の午後、ラジオのニュースは繰り返し、あの爆破テロの詳細を伝えた。テロを起こした全員の名前が特定され、その全員が自爆によって死亡したことがようやく確認されたらしかった。だがニュースが読み上げる犯人たちの名前のなかに、ヨダとハヤサカの名前はなかった。もちろん僕と彼女の名前もない。

『まるで僕たちは始めから、あの場所にいなかったみたいだ。』

僕は、僕のベッドに座る彼女を見上げて言う。彼女は古くて大きなラジオを親密そうに見つめたまま、答える。

『そうかもしれないね。』

彼女は、僕の顔を見ずに微かに笑う。

僕はしばらくの間、彼女の言葉の続きを待つ。

ラジオのニュースが終わると、心を決めかねるような僅かなノイズのあとで、ボブ・ディランの【ノッキング・オン・ヘブンズドア】が流れ始める。窓の外では清潔そうな冬の霧雨が舞い、仮設住宅の小屋の中は相変わらず薄暗く、ボブ・ディランの歌声以外に音をたてるものはない。

ミヤガワさんはベッドに腰を下ろし、ラジオとベッドの間にある空白を見つ

めながら、何かを深く考えている。僕は小屋の冷たい床に座り、霧雨を見たり、ラジオを見たり、ミヤガワさんのまつげの微妙な揺れを見たりしていた。ボブ・ディランの声は、清潔そうな冬の霧雨と、彼女がひっそりと隠している暗い感情を、いっそう掻き立てているように思えた。

『ボブ・ディランは好き?』僕は訊いた。

彼女は、すき、と簡単に答える。

『ヨダがよく、聴いていたの。それで私も聞くようになった。ヨダと出会って、つまり大学にはいってから、はじめてちゃんと聴いた。』

彼女の頬にほんの少しだけ赤みが差した。

『同じ大学だったんだよね。』

僕はぼんやりと、彼女の瞬きの数を数える。

そうだよ、と言ってから彼女は二回、瞬きをする。

『僕はその頃のヨダさんのことをよく知らないんだ。』

僕は彼女の目を覗き込むようにして言う。

『もちろん、その頃のミヤガワさんのことも知らない。』

彼女は僅かに疲れたように瞬きをする。

『楽しかったよ。毎日、飲んでた。』

僕が小さく頷くと、彼女は僕を安心させるしるしのように、優しそうに微笑む。ひどく哀しい笑い方だった。

僕は少なくとも地震の前まで、彼女とヨダが付きあっていたことを知っている。おそらく彼女は今、自分でもわからないうちに、彼女の肉体の一部が欠けたみ

たいな、決定的な喪失を感じているのだろう。唐突に切断された彼女の一部は、今、匿名の瓦礫の下で冬の霧雨に洗われているのだ。

『どこかに逃げていると思う。』

僕は、窓の外を舞う霧雨に向って言う。『ハヤサカさんとヨダさんは、おそらくどこかへうまく逃げたんだと思う。ミヤガワさんを安心させるために言っているんじゃなくてね。そしてまた再び、僕たちの前に姿を現すんじゃないかな。』

ボブ・ディランの歌声が止んだ。それを合図に僕は彼女を見る。彼女は僕を見ずに、沈黙したラジオのスピーカーを静かに眺めている。まだ、そこにボブ・ディランがいるみたいに。あるいは僕の言葉は、うまく彼女に伝わらなかったのかもしれない。彼女がまるで、耳が聞こえなくなったみたいに思えた。僕は首を振って、そんな暗い想像を振り払う。

ラジオからは思い出したみたいに、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの【シスター・レイ】が流れてきた。


 夜になると、僕と彼女はよく海岸まで歩いた。ずっと前に、彼女がボートを焼いた場所だった。僕と彼女は傘をさしたまま堤防に手をつき、暗闇の中で砂浜を打ち続ける波を眺めた。それは奇妙な風景だった。まるで海岸ごと世界が切り取られて、別の時間を浮遊しているような感覚だった。海は暗闇の中で消滅し、波は暗闇の中から伸びてくる長い腕のように、僕たちを捉えようとしていた。彼女が帰ると言い出すまで、僕たちはそこから離れようとしなかった。僕は傘をさしたまま、その場所でいつも何時間も立ち尽くしていた。

時々、僕は暗闇の中で彼女の横顔を見つめた。僕はただ、彼女の心のかたちを手にとって、触れてみたくて、しかたなかった。


 そのようにして、僕と彼女はわりと長い間、ふたりで同じ時間を過ごしていた。

本当は、僕は幸せを感じていたのかもしれない。そうじゃないにせよ、それは僕にとって公正な時間だったように思う。


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