三年後
もうこの世界に来て三年がたった。
まだ、頭の中には、朝に目を開いたとき見える、木と和紙でできた古びた電灯の面影が、その後ろに広がる天井の木の板が、起き上がった時に見える、所々傷ついたふすまが思い起こされないわけではない。その後に階段から降りて、見慣れた家族に「おはよう」と、特に大きくもない声で当たり前のように言う自分が思い起こされないわけではない。
『そろそろケントはおきてるかなー?』
しかし、頭のどこかで、この文章が思い起こされることも、すでに当たり前になりつつある。
眠りから覚めた瞬間に、頭の中で思い起こされ――いや、ついつい見てしまうこの魔法が。
『あいつはまだ起きねーよ』
『ジョーイ、あなたは逆に早く起きすぎなのよ。五時半とか早すぎるでしょ』
『はぁ? なーに言ってんだシエル。お日様とともに起きたという満足感がお前にはわからないんだな?』
『そんなのわかるわけないでしょ!』
『ああ、わかんねえだろうな、俺でもわかんねえんだから』
『はぁ』
「ハハハ……相変わらずだな、あの二人」
呆れたように笑った言野健斗は、ゆっくりと目を開けた。
頭の中には、二人の会話が縦一列に示されている。目を開けていても、記憶のように文章が存在しているので、わざわざ目を閉じて見直す必要もない。昨日の夜の分の会話もさかのぼろうと思えばたやすいことだ。
目の先に見えるのは、木と和紙でできた古びた電灯ではなく、宙に浮かんだ丸くて光る物体。その後ろに広がるのは、緑に色づけられた、ぴかぴかつるつるした天井。そして、起き上がって見えたのは、木でできた机と、階段がある廊下へと続く白いドア。
何もかもが違う。
しかし、何もかも、当たり前だ。
さて、今日も一声かけますか。
健斗はそう意気込むと、少し意識を集中させ、頭の中で文字を打った。
『おはよう!』
『あ、起きたのね!』
『健斗にしては早いな』
そして、送ったとほぼ同時に、体に来る二回の震えと、二人からの返事が飛んでくる。三人のいつもの会話だ。
――この感覚だけは、元の世界の時と似たようなものを感じる。
「まあ、単に通知だけじゃなくて、エネルギーも送られてしまうっていうのが、何回考えてもすごいところだけどな」
健斗は独り言をつぶやいてから、ベットから起き上がった。床の木の感触が足の裏に伝わる。
そして、『うん、もう下に降りるよ』『うるせぇ嘘つき』と返事を送る。
『わかった!』
『さてさて、今日二人はどんなご飯を食べてるんだろうなー、一つのコップに二つのストローをさしているのかなー、気になるなー』
シエルの返事はさておき、ジョーイの言葉は健斗のからかいを完全に無視している。しかし、健斗もこれを当たり前のように見逃した。シエルもそこから言葉を発することはない。
でも、健斗にはわかっていた。
ジョーイはむしろ無視を望んでいることを。
『おはよう!』
そして今度は、健斗が通う魔法学校の生徒が集まる空間に意識を集中させ、文字を打って送る。先ほどよりも多くのエネルギーを使用するものの、そもそも送る行為自体があまり力を必要としない。小さい子供でも、送るだけなら大陸全体にだって送ることができる。
ただ、大陸全体に朝からおはようなんて、どんな目立ちたがりやだよという印象を受けざるを得ない。健斗にとっては、魔法学校の生徒が集まる空間で十分なのだ。
『あ、ケントだ。おはよう!』
『おはよ~』
『おいおいさっきのは無視かよ!』
送ってすぐに二人のクラスメートからの返事と、一人の無視されて怒ってはいるけどうれしいですの返事。そして、体に来る震えを伴うエネルギー。
つながっている、という感じがした。
木でできた螺旋の階段を下りると、甘い香りが健斗の鼻を刺激した。このにおいは、恐らくパンケーキだ。
シエルの家の朝ごはんの中でも、パンケーキはかなりの確率で出てくるが、それは健斗のお気に入りでもあった。
だから、廊下から台所へ向かう足もどこか陽気である。
「おはようケント!」
しかし、その足取りは、台所の白いドアが急に開いたことによってストップする。
「本当に降りてきたんだね! 口だけかと思っちゃった」
シエルだ。
シエルが、緑色の長髪を揺らしながら、健斗の方にかけていく。寝間着の白いもこもこした服はふんわりとした印象だ。彼女は健斗と同じ年齢にも関わらず、顔つきは少し幼く見える。目は心なしか輝いて見えて、今にもパワーがあふれ出そうである。
「口だけは余計だろ」
「えー、だってTでだけ降りてくるって言って、十分くらい降りてこないのはいつものことじゃん。今日はすぐ降りてきたでしょ」
「……十分くらい差にならないだろ」
「いや、全然違うよ! 十分早く起きるだけで、十分早く家を出られて、十分早く予習ができるんだよ!」
こぶしを握って熱弁するシエル。小さな口をすぼめている。
「わかったわかった! じゃあ今日は十分早く家を出ような」
「オッケー! でも今日だけじゃだめだからね?」
健斗より少し身長の低いシエルが、眉をひそめながら上目遣いでのぞき込む。つややかな髪から、やわらかなフルーツのにおいがほんのりと、健斗の鼻を通過した。いつものシャンプーだ。
「……はい。そうします」
「じゃあ、ご飯食べよう!」
たぶん明日は十分くらい遅れるけどな。
シエルの上目遣いももう見慣れたことだ。並の男性ならば、明日からは絶対に起きるぞとか意気込んでそうだが、健斗にとっては、ただ、かるーく受け流すだけのものでしかない。
台所へと元気に向かうシエルを横目に、健斗は小さく苦笑いした。
健斗はシエル家の居候である。
また、出身はこの世界ではない。いや、この世界が地球ではないというべきか。
健斗がここに来たのは、まだ中学一年の時であり、何も知らない彼を導いたのはシエルである。
彼は、魔法を知り、Tを知り、さまざまなことを知った。そして、そのすべてはいつしか彼のもう一つの当たり前になっていったのだった。
健斗の部屋と同じく、緑の内装に宙に浮かぶランプがある、ダイニングキッチン。隣にはリビングが広がっていて、所々に観葉植物が置いてあるのが見える。
「はいどうぞ、ケント君」
木でできた食卓に健斗が腰を下ろすと、シエルの母、ホーリーが彼の前の机にパンケーキを置いた。
ホーリーは元気な印象があるシエルとは対極的と言えるかもしれない。目は少し垂れていて、目じりには少ししわがある。笑うときは顔がくしゃりとなって、落ち着いた印象を与える。
本人は、「私もシエルみたいな時期があったわよ」と笑いながら言っているが、今の健斗には想像もできなかった。緑がかったショートの髪だけは、親子なんだなぁと感じざるを得ないが。
「いただきます、ホーリーさん」
「ええどうぞ――あ、シロップも置いておくわね。今日は蜜がいっぱいとれたの」
くしゃりと笑って、手を合わせるホーリーさん。てててとキッチンに向かい、木の容器を取り出した。蜜は、シエルの家の庭にある花から取ったものである。とても大きな赤い花で、根元にあたる部分に蜜がある袋を持っているのだ。
「ちょっと」
「なんだよ」
ホーリーを横目に、いざ食べようとした健斗を、シエルが冷たい声で引き留める。
「ケントはいま、とんでもないミスを犯しました。さてなんでしょう」
向かい側の椅子で腕を組んで、眉をひそめるシエル。彼女は健斗に対しては何かと眉をひそめることが多い。
「……もう知らん」
シエルの指摘ももう健斗にとっては飽き飽きだ。そんなのお構いなしに、彼はフォークを動かした。
プツン。
シエルの中で何かがはじけた。
もちろん、目視ではわからない。しかし、健斗の、シエルと一緒に過ごした長年の経験が、本能が、彼の体に危機を伝えていた。
「あ、ごめん。何のミスだろうな~。ちょ、ちょっと考えるから。あ、そうだわかったからちょっとまておいおちつけ――」
健斗のフォローももう遅い。
ホーリーが手に持っていた木の容器が手から離れて、健斗の顔に向かうのに時間はかからなかった。
「なんだよ、結局十分以上かかることになっちゃったじゃんかよ」
浴室で、髪と顔にかかった蜜を洗い終え、紺色の上下に白い襟がついた制服に着替えた健斗が、リビングのソファーで拗ねているシエルにもごもごとした声で言った。口にパンケーキを頬張っているのだ。
あの後、木の容器は勢いよく健斗の方に向かい、ちょうどいいところでふたが落ちるとともに急停止。蜜のねっとり感による強大な摩擦力もお構いなしに、健斗の顔に強烈な一撃を加えたのだ。
ちなみに、惨事が起こった時、ホーリーさんはあらあら、と言って、口を押えながらどこかほほえましい感じでくしゃりと笑っていた。落ち着きすぎだ、と、蜜でぐちゃぐちゃになった健斗は思っていた。確かにもう何回も似たようなことが起こりすぎて驚かなくなったのはわかるが、自分へのダメージのことも考えてほしかった。ホーリーさんはやさしいけど、シエルに対しては甘すぎる! とは、健斗がいつも心に秘めている言葉だ。
彼が口にパンケーキを頬張っているのは、浴室からの帰り際に、机に置いたままだったパンケーキを無理やり頬張ったからだ。案の定、シロップも何もかけることはできていない。でも、それはそれでやんわりとした甘さが口の中に広がるので、健斗も嫌いなわけではないのだが、今回は急いで食べるのが精一杯になっていて素材本来の味などと言っている場合ではない。
そんな、いろいろな不満を含めた健斗の物言いに、シエルは大きな声で反発した。
「だって、いただきますの時にちゃんと手を合わせてなかったから」
「手を合わせなかったくらいで顔に蜜をぶちまけるやつがあるか!!」
「だって、何回も言ってたことなのに」
「いただきますはちゃんと言ったし、食べ物に感謝もしてる。これでいいだろっていつも言っているだろ」
「だから、そういう横着なところがだめって言ってるんでしょ!」
そう言ってシエルはソファーから立ちあがり、健斗に顔を向けた。健斗と同じ紺色のワンピースに、白い襟がついた制服の裾がひらりと揺れ、きれいな足がいつもより少しだけ多く見えた。表情は、眉間にしわを寄せて、いかにも不機嫌そうにしている。
「……わかった。次はちゃんとするよ」
こうなると、彼女を止めるすべはない。必死になっているシエルは結構面白いのだが、引き時も大切だ。一年半ほど一緒に過ごしている健斗にとって、シエルの扱いというのは手慣れたものだった。
「よし! よろしい」
そして、反省の言葉を聞いたシエルは満面の笑みを浮かべた。
ちなみに、彼女のこの反応も健斗には予想済みである。
「……シエルって相変わらずだよな」
「え? どういうこと?」
健斗のつぶやきに、シエルは首をかしげる。
「いや、なんでもない。ほら、学校に行こうよ。もういつもより五分も遅いぞ」
木を装った時計は、八時十五分を指している。授業開始が八時三十分だ。学校へは十五分で行くことができるのだが、そこから教室まで歩くのには何分かかかる。このままでは遅刻するかもしれない。
「え……うわ、ほんとだ! 早くいこ!」
目と口を大きく開いて大げさに驚き、玄関へと駆けていくシエル。
「しっかりしているというか、抜けてるというか……」
健斗もあきれた声で呟いてから、玄関に向かう。
そして、玄関口にかけてある黒いローブと、二つ星のついたペンダントを着用して、シエルに後れを取らないようにドアを開けた。もちろん、ホーリーに対しての「いってきます」も忘れない。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
ホーリーの部屋の方から聞こえた元気な声を確認して、健斗は外へ出た。
あいつ、いってきます言っていないよな、という小さな不満とともに。
外へ出ても、健斗は朝起きた時と同じような、当たり前じゃないけど当たり前のような感覚がまだ抜けない。
健斗の住む町、ルーレ。町の道のほとんどが黄土色の石畳で埋め尽くされていて、通りに連なる家は石でできたもの、木でできたもの、健斗の家のような、ぴかぴかつるつるの壁で覆われた家など様々。もちろん健斗のいた日本とは全く違う。
シエルの家から右、つまりもう少し町の中心へ進むと、ルーレの中心街がある。ここには、健斗たちが通う学校、新鮮な野菜や肉が立ち並ぶ大きな市場、さまざまな情報が集まる町民の憩いの場、図書館など、生活のかなめとなる場所が多々ある。
ルーレの形を一言で表すならば、放射状だろう。この中心街からいくつもの道と住宅街が放射状に延びているのである。道々の途中には、違う通りの懸け橋となる横道がとおっていて、これもまた中心から均等な距離にあるので、上から見ればさぞ秩序だった美しい形をしていることだろう。延びた道の先には草原があるのだが、ここに行くのは授業の時や仕事の時以外あまりない。ちなみに、シエルの家は、図書館が学校の北にあるとすれば、その図書館の北側の通りの、草原に近い側にある。
つまり、学校はちょっとだけ遠い。
「さ、行くわよ!」
玄関のドアを開けると、シエルはすでに門から道に出て、石畳の上で足踏みしていた。やる気十分だ。
「よう、ケント。お前の愛するシエルがウォームアップを完成させているぞ」
そして、見知らぬイケメンがその隣で何か変なことを言っている。紺色の上下に白い襟の制服、黒色のローブ、二つ星のネックレスと、身なりは健斗と同じである。青色の髪は短く切られていて、モヒカンもどきのイケイケヘアスタイル。見かけ倒しのイケメンとは、この事を言うのかもしれない。
「え? お前、誰?」
「いいからケント! こいつはほっといて先に行くわよ!」
健斗の質問(?)に半ばかぶせるようにしてシエルが言い放った。こいつにかまっている暇はないということだろう。実際、健斗も若干そう思っている。
「誰とは失礼な! お前たちは、このジョーイの存在を忘れたのか! きょうの朝だって、家の前に着いたとかちょっといつもより遅くないかとか何回もTを送ってたじゃ――ぐほぉ!?」
「あんたは草原にでも行ってなさい!」
ジョーイの決死の抵抗は、シエルがどこからか持ってきた木をジョーイに直にぶつけ、彼の体をひっかけたまま草原の方向へぶっ飛ばすことによってさえぎられた。朝見せたものと同じ、『浮遊』と『動』の基礎魔法の合わせ技だ。
……朝とは規模が違いすぎているが。
「よし! 朝の日課も済ませたことだし、サッサと走るわよ!」
若干勝気な笑みをこぼしているシエルの胸元には、三つ星のついたネックレスがきらりと光っていた。
健斗は、走りながら少しだけ目を閉じ、意識を集中させる。
すぐさま、健斗、シエル、ジョーイの朝の会話が頭の中で縦一列に表示された。
『さてさて、今日二人はどんなご飯を食べてるんだろうなー、一つのコップに二つのストローをさしているのかなー、気になるなー』
『家に着いたぞーい』
『いつもより遅くないか? なんだなんだ? 二人で何をしているんだおいおい』
余計な語尾とか言葉をつけすぎだろあいつ。
最後の部分に続いているジョーイの言葉三連続に、健斗は少しだけニヤリとしてから、今度は魔法学校全体へと意識を向ける。テレビのチャンネルを変えるような感覚だ。
しかし、発信する場合とは違って、閲覧する場合には処理能力が必要となる。それだけ人の数が大きくなるからだ。能力には個人差があるが、Tを使い続けることによって、大人になればルーレ全体の空間を見ることができるようにはなるそう。これはシエルの言葉だ。健斗はまだここにきて三年の身なので、まだまだ力は乏しく、魔法学校全体に意識を向けるのがやっとだ。今も絶賛努力中である。
やがて、いろんな人のTが見える状態へと移った。Tは先ほどと同じく、縦一列に表示されている。
『学校到着!』
『ホランさん相変わらず』
『今起きた。ちこくでーす』
『はっはっは、今日の木はなかなか硬かったぜ』
そうこうしているうちにも、生徒のみんなが発したTがどんどん更新されている。名前も隣に表示されているので、誰が発したかはすぐにわかる。知らない奴もいるにはいるけど。あ、最後のTは名前を表示する必要もなさそう。
ただ、隣で走っている奴は、Tと一体化したようなやつだから――。
「ちょっとだけ歩きましょう」
健斗がちらとシエルを見やると、彼が疲れたと取ったのか、そう呟いた。
走っている場合だと、ものの五分と少しで町の中心街までたどり着く。
その証拠に、円形に石畳が敷き詰められた広場の中心には、地面から半球状に五メートルほど突き出た青い物体が見えた。半径も同じく五メートルほど。広場の左右の側面には市場が弧を描くように展開していて、主婦の人々や、小さな子供を連れた家族連れでにぎわっている。
二人は、放射状の道の根元に当たる図書館のところで、スピードをいったん緩めて休憩をとる。
少しあるいて、シエルがつぶやいた。
「あらら、イズミの周りに生徒が全然いないじゃない」
「やばいな……。テキパキいこう」
そして、また二人は走り出した。
シエルがいうように、この青い物体はイズミと呼ばれている。そこまで再び走ってたどり着いた二人は、手の平サイズの中身のない透明な瓶を取り出し、イズミに握った手ごと突っ込んだ。これは、魔法学校に通う生徒にとっては欠かせないことなので、周りにいない=遅刻の可能性が高いということである。シエルの言葉はそういったニュアンスを含んでいる。
時間もたたないうちに、その瓶は青い液体で満たされ、満たされたことをそれぞれ確認した二人は、瓶を抜き出して栓を閉める。
「今何時?」
瓶を制服のポケットにしまったシエルが、若干焦り気味に聞いた。
「んーと、八時二十三分」
「よし、間に合いそう!」
腕時計を見て告げた健斗に、シエルは笑顔で答えた。
流れるように午前中の授業が終わり、昼休みになった。そして、健斗はいつもの場所へ向かう。今日は1.2限目に実習がなかったので、体力的にも余裕がある。
いつもの場所、とは、図書館のことだ。図書館には、先駆者たちによる様々なアイディアがあるので、自分の能力の向上にもつながる。ほかの生徒も、ここで昼休み、さらには放課後の時間をつぶす人も多い。
図書館の形を一言で表すのなら、巨大な灰色の二等辺三角形だ。立地が、放射状に飛び出た道の根元に存在するため、この形になるのは必然的と言える。
鋭角の頂点にあたる所に入口はあり、ドアはガラスでできた、魔法の自動ドアである。
そのドアを通ると、まずたくさんの読書スペースが出迎える。本が所々で飛んでいるのが見えるのだが、これは、本棚から出した本を魔法で元の場所に戻しているからだ。そして、奥のほうには、一階に立ち並ぶ本棚、そして、側面からの階段で行くことができる、二階、三階の大きな本棚という膨大な数の本が並べられていて、何とも言えない威圧感を感じさせる。特に、二階と三階に見える大量の背表紙は、まるで来訪者をにらむかのようだ。
『何回見ても図書館には圧倒されるな……』
健斗は、半ば無意識に魔法学校の空間にTを送り、いつもの図書館のいつもの場所に向かった。
木の机といすが並ぶ読書スペースの、一番本棚に近いところ。ここは、健斗がこの世界に来てから、ほとんど来ない日はない場所だ。もちろん、あのお方もいる。
『いつもの場所にいるよ~』
到着する前に、あっちの方からメッセージが来た。
きっと、さっきのTを見てたんだろうな。さすがシエルだ。
健斗はそう思いながら、すでに見えている緑色の長髪の後ろ姿の方に、少し早歩きで向った。
「遅い! いつもより二分遅刻だよ!」
そして、着くなりシエルが言い放った言葉がこれだ。
眉をひそめているのも相変わらず。しわができないのがおかしいくらいだ。
「二分くらいいいだろ。いちいち細かいんだよ」
「二分でも読める量に十分影響があるんだから! 一分一秒を重んじて生活しないといけないよ!」
「じゃあ、朝のシロップをかけた件でぎりぎり登校することになったのはどう説明してくれるんだよ?」
「え? えっと……それは、ケントが悪いから……」
下を向いてもぞもぞするシエル。
これは勝ちパターンだ、と、健斗は思った。
「大体、二分遅れたとか言ってこうやって怒ってるうちに、また時間が過ぎていってるんだがね~」
「くっ……。でも、言わないと治らないじゃない!」
言いよどむものの、シエルはなんとか反論した。
「うっ……」
これは健斗の予想外の展開だったようで、今度は健斗が苦い表情をする。
「言わないと治らない状態から、言わなくてもできる状態になったら、どれだけの時間が節約できるのかな~?」
「その顔ムカつくから早く読むわ」
今日は戦績が悪いな……と思いながら、健斗はシエルの勝気な変顔に負け惜しみをこぼした。
そう、健斗は当たり前のように、こんな言い争いがこれからも続くもとだとばかり思っていた。
しかし、人生に変化はつきものだ。この状態もいつまで続くかはわからない。でも、わかっていても、人はこの状態がいつまでも続くと思ってしまうのだ。
「あっ、ナギ爺からだ」
争いもひと段落し、いざ本を開いて勉強を始めようとしたところで、シエルがぼそっとつぶやいた。
ナギ爺、とは、この図書館の管理人をしているお爺さんのことだ。図書館の管理人なんて、まあ普通の人なんじゃないかっていう人も多いけど、ナギ爺さんの場合、この考えは全く当てはまらない。この人は、ルーレの町の中でも一二を争うすごい人なのだ。
そのナギ爺さんからお声がかかるくらいなので、シエルも十分すごいということになる。健斗も、シエルと仲がいいというよしみで、この世界に来てからいろいろと助けてもらっているのだが。
「どんな要件?」
健斗が聞く。なんにしろ、あのナギ爺さんだ。きっと面白い話題に決まっている。彼は少し心を躍らせながら聞いたのだ。
「……うーん」
しかし、健斗に対してシエルはどこか不安な表情だった。
「もしかして、悪い話?」
そんなシエルを見て、ケントもこれまた声のトーンを落として聞く。
「いや、そういうわけじゃないと思うんだけど……。『ちょっと言っておきたいことがあるから、管理人室まで来てほしい』だって。言っておきたいってところから、不穏な空気を感じ取らざるを得ないっていうか……」
「確かに」
シエルの言うことを健斗は理解した。確かに、言っておきたいっていう言葉からは、これから起こることに対する、準備というか心構えというか、そういった目的のための忠告ようなニュアンスを含んでいそうだった。
「俺も行っていいかな? その話聞きたいんだけど」
少しの興味と少しの責任感のような気持ちを持ちながら、彼はシエルに聞いた。
「ちょっと聞いてみるね…………うん。大丈夫だって」
「連絡はやっ!?」
ものの五秒もかからずに、シエルは会話を成立させた。
「だってナギ爺さんだもん。当たり前でしょ」
「シエルもたいがいだけどな」
少し自慢げにはにかんで言うシエルに、健斗はあきれて言った。
「たいがいってどういうことよ」
「たいがいはたいがいだよ。T廃人だってこと」
プツン。
健斗が発したある言葉に、シエルの中にある何かしらの糸がプツンと切れた。
「その言葉は言わないって約束だよね……? ケントくん?」
「へ? 何か言いましたかシエルさん」
「……もう一度言ってみなさいよその言葉をぉぉ」
「ええ、何度でも言ってやりますよT廃人さん」
「…………」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
あ、やばい。やりすぎた。
健斗は、ここでやっと我に返った。
しかし気づいてももう遅い。
シエルの後ろにある『木』でできた巨大な本棚は次々と浮かび上がり、やがてそのすべては、あの小指が当たったら痛い部分の角が健斗に向くようにして止まった。
周りの生徒はなんだなんだと慌てふためく者や、ギャーギャーと騒ぐもの。急いで入口へ向かうもの等々、一瞬で地獄絵図を形成してしまった。
場所が悪かった。
ああ、お母さん、お父さん。
くずな自分でごめんなさい。急にこんな変な世界へ行ってしまってごめんなさい。
俺は、もう、今日で死ぬかもしれません。
こんなしっかり者だけどちょっと抜けてて、本気で怒ったらだれも止められなくなるような情緒不安定な奴につかまってしまって早三年。俺、言野健斗は今ここで生涯を終えようとしています。
今まで本当にありがとうございました。自分は、本当に数奇な人生を送ることができて幸せでした。……たぶん。
また、生まれ変わったら、ありがとうを伝えに行きます。
さようなら。
――健斗は、静かに目を閉じた。
続きが気になるかたは、ブクマお願いしますm(_ _)m
励みになります。
普通に書いていて楽しいんですけどね。
ボチボチ続けていきます。