EP 11
魔族の貴公子、紫煙に惹かれる
小料理屋『龍』のある路地裏。
そこは今や、太郎国で最も「魔境」に近い場所と呼ばれていた。
「……やれやれ。魔王様が執務を放り出して通い詰める店とは、一体どんな場所だ」
石畳を優雅に歩く男が一人。
ワイズ皇国の名門貴族にして魔王の側近、ルーベンスだ。
仕立ての良い漆黒のスーツを着こなし、端正な顔立ちには知性と皮肉な笑みを浮かべている。
彼は現実主義者だ。
「愛」だの「世界征服」だのといった暑苦しい理想よりも、確実な利益と、週末の競馬を愛している。
「ブラックホールで国を消される前に、連れ戻さねばな」
ルーベンスはため息をつき、『龍』の正面入口へと足を向けた。
だが。
「……っ」
店のドアに手を掛けようとした瞬間、ルーベンスの足がピタリと止まった。
彼の優れた感知能力が、ドアの向こうから漏れ出す**「異常なプレッシャー」**を捉えたからだ。
(なんだ、この重圧は……!?)
ドアの隙間から漏れ聞こえる声。
『あらラスティア、そのチョコは私が予約していたのよ?(女神の神威)』
『はぁ? 先にフォークを刺したのは私よ。消し飛ぶ?(魔王の殺気)』
『お二人とも大人げない。龍魔呂様の癒やしは私の役目です(聖獣の闘気)』
(……無理だ)
ルーベンスは瞬時に判断した。
中には魔王だけでなく、女神ルチアナ、さらには他国のVIPたちがひしめき合い、ドロドロとした情念の渦を形成している。
あの中に男一人が飛び込むなど、自殺行為に等しい。
「……戦略的撤退だ。まずは情報を整理する」
ルーベンスは冷や汗を拭い、店の裏手へと回った。
少し頭を冷やし、愛用のタバコで一服してから策を練ろう。そう考えたのだ。
店の裏口。
そこには、古びたビールケースに腰掛け、夜空を見上げている先客がいた。
赤と黒の服。鋭い眼光。
店主、龍魔呂である。
「……あ?」
龍魔呂が視線を向ける。
ルーベンスは一瞬身構えたが、すぐにその男が放つ空気が、店内の女性陣とは違うことに気づいた。
静寂。枯れた哀愁。そして、自分と同じ「疲れ」の匂い。
「……すまない。ここへは客として来たわけじゃない。少し、煙を吸いたくてね」
ルーベンスは胸ポケットから、緑色のパッケージ――**『マルボロ(メンソール)』**を取り出した。
【地球ショッピング】の流通により、魔族の間でも愛好者が増えている嗜好品だ。
一本くわえ、ポケットを探る。
……ない。
愛用のライターを、執務室に忘れてきたらしい。
「ついてないな……」
ルーベンスが苦笑した、その時だった。
ヒュッ。
龍魔呂が無言で何かを投げた。
銀色の金属塊が放物線を描き、ルーベンスの手元に吸い込まれる。
使い込まれた**『ジッポライター』**だ。
「……借りるよ」
カキンッ。
小気味よい音が響き、オイルの匂いと共に火が灯る。
ルーベンスは深く吸い込み、清涼感のある煙を肺に満たした。
「ふぅ……。生き返る」
ライターを投げ返す。
龍魔呂はそれを受け取ると、自分の**『マルボロ(赤)』**に火を点けた。
二人の男の間に、紫煙が立ち昇る。
言葉はいらない。
ただ、同じ「煙」を共有する時間だけが流れる。
「……緑か」
龍魔呂がポツリと呟いた。
「ん?」
「メンソール派とは、洒落た兄ちゃんだな」
「フッ……そういうアンタは赤マルか。随分とキツイのを吸っているんだな。……喉、焼けないか?」
「これくらいガツンと来ねぇと、やってられねぇんでな」
龍魔呂は短く笑い、煙を吐き出した。
「店の中が、あの有様だからな」
「……あぁ、察するよ。ドア越しでも胃が痛くなる重圧だった」
ルーベンスは壁に背を預け、ニヤリと笑った。
「アンタが店主か。……魔王だの女神だの、あんな猛獣たちを手懐けているとは、いい度胸だ」
「手懐けてなんかいねぇよ。勝手に住み着いただけだ」
龍魔呂のぼやきに、ルーベンスは親近感を覚えた。
この男もまた、自分と同じく「強すぎる女たち」に振り回される苦労人なのだと。
その時、ルーベンスの視線が、龍魔呂の足元に置かれた新聞に止まった。
「……おや」
それは、太郎国の最新の**『競馬新聞』**だった。
「アンタ、やるのか?」
「……暇つぶし程度にな。数字を見てると落ち着く」
龍魔呂が新聞を拾い上げる。
「フッ、奇遇だね。私もだよ。……ちなみに、次の第11レース、どこが来ると踏んでいる?」
ルーベンスの瞳が、少年のように輝いた。
龍魔呂は新聞の馬柱を指差した。
「この『ブラックサンダー』だ。……脚質が荒いが、根性がある」
「ほう、穴狙いか。私は本命の『ホワイトウィンド』だ。データが安定している」
「……賭けるか?」
龍魔呂の提案に、ルーベンスは口元の端を吊り上げた。
この男、話がわかる。
堅苦しい外交や、魔王のご機嫌取りよりも、遥かに有意義な時間だ。
「いいだろう。……私が勝ったら、店の中で一番高い酒を奢ってもらおうか」
「負けたら?」
「あの猛獣(ラスティア様)を、私が責任を持って連れて帰る」
「成立だ」
二人はガシッと握手を交わした。
店の中では、依然としてヒロインたちのマウント合戦が続いている。
だが、この裏口のわずかなスペースだけは、煙と博打を愛する男たちの不可侵条約が結ばれた「聖域」となったのだ。
「……さて、一服したら戻るか。戦場へ」
「あぁ。……死ぬなよ、兄ちゃん」
ルーベンスはタバコをもみ消し、上着の襟を直した。
先ほどまでの憂鬱は消え、足取りは軽い。
この店には、美味い飯だけでなく、最高の「喫煙所」がある。それだけで通う理由は十分だった。




