EP 1
霧を抜けたら女神に壁ドンしていた件
深夜の湾岸道路。
アスファルトを叩く雨音を切り裂いて、重厚なVツインエンジンの咆哮が轟く。
赤と黒のツートンカラーに塗装された大型バイク。
それに跨るのは、漆黒のレザージャケットに、血のような赤のアクセントが入ったズボンを履いた男――鬼神 龍魔呂、23歳。
ヘルメット越しのインカムに、電子加工された声が響く。
『――龍魔呂。聞こえているかい?』
「あぁ。ガジェット、今日の『悪』は?」
龍魔呂の声は低く、そして冷え切っている。
それは料理を作る時の温かさとは真逆の、かつて裏社会で『DEATH4』と恐れられた処刑人の声だ。
『工場跡地だ。C地区の廃棄プラントに、ヤクの売人たちが集まっているよ。数は10人ってところだね』
「そうか。……悪は処刑だ」
短く告げると、龍魔呂は通信を切った。
躊躇いはない。慈悲もない。
彼が動く時、それは対象にとっての死刑宣告に等しい。
「……チッ」
スロットルを回そうとした矢先、視界が白く濁った。
海から発生した霧ではない。もっと濃密で、空間そのものを歪めるような不自然な霧。
「面倒な」
減速などしない。
龍魔呂は逆にアクセルを回し、エンジンを唸らせてその白い闇の中へと突っ込んだ。
視界が晴れた瞬間、タイヤが捉えていたアスファルトの感触が消えた。
エンジン音が吸い込まれるような静寂。
目の前に広がるのは、無限に続く純白の空間だった。
「――ようこそ、迷える魂よ。ここは審判の場」
そこに立っていたのは、光り輝くドレスを纏った絶世の美女。
世界を管理する女神、ルチアナだ。
彼女は作り笑顔で、マニュアル通りのセリフを紡ごうとした。
「私は女神ルチアナ。不慮の事故により命を落とした貴方に、新たな人生と……」
「あぁ?」
ドスの利いた低い声が、女神の言葉を遮った。
ルチアナはビクリと肩を震わせ、目の前の男を凝視する。
(……え? なにこのイケメン。ワイルド系? しかも凄まじい眼力……超私好みじゃない!)
数億年の管理業務に飽き飽きしていたルチアナの心臓が、久しぶりに高鳴る。
だが、彼女はプロの女神だ。ここはテンプレ通りに進行しなければならない。威厳を保ち、淡々と事務処理を……。
「こ、ここは審判の場。貴方に転生特典としてスキルを授け……」
「おい」
キュウウウンッ!
龍魔呂はバイクを急発進させた。
距離を一瞬で詰める。
そして、急ブレーキと共にサイドスタンドを立てる間もなく、車体から降りると――
ドンッ!!
「――っ!?」
龍魔呂の左手が、ルチアナの顔の横にある(見えないはずの)空間の壁を叩いた。
いわゆる、壁ドンである。
「は、はい!?」
ルチアナの思考が停止した。
近い。あまりにも近い。
龍魔呂の吐くタバコの紫煙と、微かに香る男の匂い、そして絶対的な「強者」のオーラが、女神の嗅覚と本能をダイレクトに刺激する。
龍魔呂は、ルチアナの美しい瞳を至近距離で睨みつけた。
「急にわけの分からない所に連れてきて……詫びの一つもないのか?」
それは単なる因縁だった。
仕事(処刑)の邪魔をされたことへの苛立ち。
だが、恋愛偏差値がバグり始めている女神の脳内変換は違った。
(わ、詫び? 私の身体で償えってこと!?)
ルチアナの顔が沸騰する。
この強引さ。有無を言わせぬ支配力。
数多の英雄を見てきたが、女神である自分を脅す男など初めてだ。
「あ、貴方……わ、私を口説くつもり!?」
「……あぁ?」
龍魔呂が眉をひそめる。
その不機嫌そうな表情すら、ルチアナにはセクシーに見えてしまう。
「私は女神で、貴方は人間よ……種族が違うわ! でも……」
「何を言ってやがる」
龍魔呂は呆れた。
こいつは話が通じないタイプか。なら、手っ取り早く実利を得て立ち去るしかない。
「さっさと寄越すモン寄越せ。俺は忙しいんだ」
「――っ!」
(私から全てを奪うつもりね!? 強引なんだからっ……!)
ルチアナは両手で頬を押さえ、とろけるような瞳で龍魔呂を見上げた。
「良いわ……全てあげる! 私の全てを! 責任取ってね!?」
ルチアナは虚空から輝く光の球と、一枚の羊皮紙、そしてスマホを取り出した。
「はいこれ! ユニークスキル【地球ショッピング】! それとこれ、私のプライベートナンバー(神界直通)! あとこれ、婚姻届! サインは後でいいから!」
「地球ショッピング? ……婚姻届?」
龍魔呂は光の球を胸に取り込み、婚姻届と書かれた紙切れを訝しげに見る。
よく分からないが、この女の気が済むならそれでいい。
「……チッ。まぁ、これでいいか」
用は済んだ。
龍魔呂は紙とスマホをジャケットのポケットにねじ込むと、再びバイクに跨った。
「おい、出口はどっちだ」
「え? あ、あっちよ……」
ルチアナが指差した先、空間に亀裂が入る。
ブォォォンッ!!
重低音が響き渡り、龍魔呂は礼も言わずにアクセルを開けた。
一瞬で加速し、光の彼方へと消えていく赤黒い影。
その背中を見送りながら、取り残された女神ルチアナは、その場にヘナヘナと座り込んだ。
「……なにあれ。かっこよすぎ……」
彼女は熱っぽい息を吐き、誰もいない空間に向かって絶叫した。
「待ってて龍魔呂ぉぉ! 今日の仕事(世界管理)が終わったら、すぐに駆けつけるからぁぁぁ♡」
こうして。
最強の鬼神と、残念な女神の物語は、盛大な勘違いと共に幕を開けた。




