呼吸の終焉 第二章 黒い柱(Part 5) 連番⑨
黒柱の存在が明らかになり、世界を巻き込んだ混乱が始まる。人々は疑心暗鬼に陥るが、容赦ない事実が起こっていく。
♢ 白石―街の異変
その日の東京は、異常なほど静かだった。
早朝のはずなのに、車の排気音が遠くの霧に吸い込まれ、
交差点の信号機だけが、色を変えながら孤独に瞬いていた。
ジャーナリストとして第一線を走る白石麻里は、午前8時過ぎ
新宿駅南口の歩道橋に立って、取材メモを開いた。
風がない。
冬でも夏でもない、中途半端な暖かさが街に貼りついている。
通勤客が足早に行き交うが、その歩調がどこかぎこちないことに、
白石はすぐ気づいた。
男がひとり、階段の途中で立ち止まる。
胸に手を当て、息を整えている。
――まただ。
白石は取材で行った港町を思い出した。
「海の底が、息をしてないみたいなんだよ」
沿岸の漁師は言っていた。
「ここ十年で、夏になると“死んだ海”が広がる。
網を入れても、浮かんでくるのは白く腹を見せた魚ばかりだ。」と。
現場に同行した海洋学者は、端的にこう言った。
「海の中層の酸素が、静かに抜けているんです」
「沿岸では“デッドゾーン”、つまり生き物が長くいられない低酸素域が、
この数十年で何倍にも広がっている。
人間の排出物と温暖化のせいだと言われていますが。」
ここ数日、街の小さな“息切れ”が、白石の周囲で増えていた。
白石は彼に近づく。
「すみません、体調は?」
「いや……大丈夫です。ただ、少し急に、息が……」
男は笑おうとしたが、その笑みは薄く揺れた。
白石は胸ポケットから携帯パルスオキシメーターを取り出した。
「よければ指を。すぐ終わります」
男は驚いた顔をしたが、素直に従った。
数秒後、表示が出た。
SpO₂:92%
白石は眉を寄せた。
健常者の値ではない。
だが、男は明らかに病人というわけでもない。
「最近、こういう人が増えてます」
そう言うと、男は目を丸くした。
「ニュースでは何も言ってなかったが……」
「ニュースが追いついてないだけですよ」
白石は苦笑した。
ニュースが追いつけないほど“空気”が変わっている――そんな感覚が拭えない。
歩道橋の下から、救急車のサイレンが遠く響いた。
だが、その音もどこかくぐもって聞こえる。
まるで街全体が“息を潜めている”ようだ。
白石は取材メモに記す。
――市街地で軽度の低酸素症状。立ちくらみ、息切れ、頭痛。
――風が弱い。空気の動きに粘り。
――市民は異変を自覚していないか、気のせいと片づけている。
駅前の広場に降りると、ベンチに腰かけた高齢女性が肩で息をしていた。
隣の男性が慌てて水を差し出す。
「大丈夫ですか?熱中症――?」
白石は思わず足を止めた。
今日は熱中症になるような気温ではない。
(……始まっている)
取材前夜、気象庁の友人から“雑談”として聞かされた一言が脳裏に蘇る。
『変なんだ。風向きの計算が合わない。
酸素だけが、どこかへ“落ちてる”みたいで……』
それを思い返した瞬間、白石の耳にかすかなざわめきが届いた。
風ではない。
機械音でもない。
――空気が沈む、あの奇妙な感覚。
白石は胸の奥が冷えるのを感じた。
「……まさか」
そう呟いた瞬間、上空を飛ぶハトの群れが、突然高度を落とした。
重力に引き倒されたような、不自然な急降下。
通行人が悲鳴を上げる。
ハトたちは広場の端へ散らばるように落ち、そのままばたついた。
白石は息を呑んだ。
――黒柱。
――酸素の下降。
街で起きている小さな異変が、一つの線になって繋がった。
白石は取材カメラを構え、録画ボタンを押す。
「これが……最初の徴か」
その声は震えていた。
だが、記者としての本能が背中を押した。
世界の“呼吸”が変わり始めている。
それを伝えるのが、自分の仕事だ。
白石は歩き出した。
空気は先ほどよりもわずかに重く、吸い込むたびに喉の奥がひりつく。
けれど彼女は、メモを閉じなかった。
オフィスに戻り、モニターに映し出される映像を見ると、
ニュースパネルには、戦争や暴動だけではなく、自然の機嫌も並んでいた。
南の海上で、台風がまた進路を変えている。
本来なら緩やかに北上してくるはずの熱帯低気圧が、ここ数年は、
急に足を止めて同じ場所に居座ったり、
一晩で急激に力を増して巨大な渦に変わったりする。
「百年に一度」の豪雨は、もう年に一度の決まり文句になり、
梅雨前線は地図の上で、まるで迷子になった糸のように行き場を失っていた。
真冬に半袖で過ごせる日があるかと思えば、
春先に季節外れの寒波が街を凍らせる。
内陸の山間部では、小さな群発地震のニュースが増えた。
火山学者たちは、火山性微動とガスの組成が「これまでのパターンから
少し外れている」と
慎重な言い回しで説明している。
火山灰の粒径分布や、噴き出すガスの比率が、
長期統計からわずかにずれているのだという。
「地球規模の気候変動の影響と考えられます」
気象庁の会見で、白衣の専門家はそう結ぶ。
誰も「地球の気分が変わった」とは言わない。
けれど、画面の向こうで乱れた等圧線や、ぎこちない季節風の流れを見ていると、
白石には、世界そのものの「呼吸」がうまく合っていないように思えた。
その違和感は、しかし記事にはならない。
戦争と災害に挟まれた天気のグラフィックとして、
数秒だけ映されては、すぐ次のニュースに飲み込まれていくのだった。
♢ 風の休日 ―決意
その年の春、黒い柱が世界を騒がせる前。
天野は久しぶりに休暇を取り、
結衣と美桜を連れて郊外の湖へ出かけた。
空は薄曇り。
水面には小さな波紋が広がり、風が草原を撫でていた。
「パパ、かぜが うたってるみたい! きこえる?」
美桜が両手を広げて走る。
天野は微笑んで、その背を見つめた。
彼の研究テーマ――“地球の呼吸循環モデル”――が頭をよぎる。
空気は、ただの気体ではない。
この瞬間も、無数の命が吸い、吐き、世界を一つのリズムにしている。
結衣がバスケットを開けて言った。
「あなた、最近ずっと空ばかり見てる。」
「仕事柄、どうしてもな。
……でも今日は、空じゃなくて風を見てる。」
「風を?」
「そう。目には見えないけど、
この世界を動かしている“気配”みたいなものだ。」
結衣は小さく笑い、
「あなたがいなくても、この風は続くのよ。」
と呟いた。
天野は頷いた。
「もし風が止まる日が来たら、
もう一度、誰かが動かすんだ。」
美桜が二人の間に駆け寄り、
「じゃあパパが止まっても、私が動かすね!」
その言葉に、天野は思わず泣きそうになった。
美桜の笑顔を見た瞬間、
天野は胸の奥で何かが静かに形を変えるのを感じた。
守るべきものは、これ以上なく明確だった。
自分はこの小さな命の“未来”を繋ぐために生きている──
その想いが、揺るぎない信念へと変わっていった。
(第三章 酸素戦争(Part 1)に続く)
第三章では、いよいよ世界の混乱が「始まって」いく。酸素が無くなる世界。人々はどのように向き合うのだろうか?




