呼吸の終焉 第二章 黒い柱(Part 4) 連番⑧
政治も科学者も混乱していた。天野たちは黒柱の解析に注力する。しかし、知る、判る、ほど絶望の淵に近づいてゆく。
黒柱が最初の光信号を発した直後、
地球全体の電離層に異常値が観測された。
高度三百キロの電離層が、
まるで巨大な手で撫でられたようにゆっくり波打ち、
反射角が狂い長距離通信は全て霧散した。
各国の通信衛星は
黒柱の近傍に広がる“電磁の静寂域”に
信号を吸い込まれ、軌道上で沈黙を余儀なくされた。
地上では風が消え、
冷却できないデータセンターが次々と過熱して停止した。
通信塔は送信を続けようとしたが、
黒柱が放つ“周波数均質化波”に上書きされ、
すべての電波は同じわずかな揺らぎに変換された。
世界のネットワークは崩壊したのではない。
風が止まり、電離層が乱され、
電波そのものが“地球の呼吸”として整えられ、
通信という概念が外側から消された。
人類は、
声ではなく風に依存する通信を当たり前だと思い込んでいた。
風が消えると、通信も消える。
その単純な事実だけだった。
太平洋の観測衛星が捉えた映像は、
海面から垂直に伸びる“影の塔”の群れだった。
それは煙ではない。
可視光を吸収し、レーダー波を歪ませる物質。
高さおよそ30km、幅数十メートル。
その数──正確に4719本。
報道管制下でも、すぐに情報をリークできる人類のネットワークは止まらない。
人々はそれを“神の杭”と呼んだ。
ニュースは連日その映像を流し、宗教団体は「天の審判」と叫んだ。
しかし科学者たちは沈黙した。
何も説明できなかったからだ。
東京でも、空が異様に暗くなった。
昼なのに夕暮れのような橙色の光が街を覆い、
太陽光が薄い膜を通して届くように見えた。
「衛星データだと、成層圏に不自然なエアロゾルの層ができてる。
太陽光が、分厚いフィルター越しにしか届いていないんだ。」
「雲じゃない……これは影です。」
成瀬が言った。
「海上のどこかで、光を吸い込むものがある。」
数日後、AIが解析した結果、
柱の位置は海底火山帯・熱水噴出口の真上と一致していた。
つまり、地球の肺にあたる部分から生えている。
「まるで、地球が自分の肺を外へ突き出しているようだ……」
天野の声はかすれた。
やがて日本近海の目視できる場所にも同様の柱が現れた。
夜になると、柱の先端が青白く光り、
上空のイオン層を撫でるように揺れていた。
気象庁が派遣した観測ドローンは、柱の表面から微弱な電磁信号を受信。
それは人間の脳波に似た周期を持っていた。
「これ、思考してます。」
成瀬の報告に、天野は息を呑む。
まるで、空そのものが“考えている”ようだった。
国連は緊急会議を開き、
黒い柱を“未確認生体構造体”として登録。
同時に、世界中の酸素濃度が0.5%下がったことが発表された。
世界は初めて理解した。
それは気象でも、地殻現象でもなく、生き物だった。
♢
その夜、天野は夢を見た。
果てしなく高い黒い柱の内部で、
誰かが、ゆっくりと、静かに呼吸している夢だった。
その呼吸音は、人間のものに似ていた。
ただ、やけに深く、重く、世界そのものの鼓動のようでもあった。
──吸って、吐く。
まるで地球が眠りながら呼吸をしているかのように。
気づくと彼は筑波研究所の屋上に立っていた。
いつかの記憶が、夢と現実の狭間から滲んでくる。
成瀬が横にいた。
彼女のマスク越しの呼吸が、風の止まった夜気に溶けていく。
遠くの空に、光を持たない巨大な影が漂っていた。
その輪郭は夜の中で歪み、静かに世界を押しつぶすように沈黙している。
「……先生、見えますか。あれが……」
「ああ。」
天野は短く答えた。
「アメリカが撃った。だが、沈黙したのは柱じゃない……
世界のほうだ。」
爆発も衝撃波もなかったようだ。
むしろすべての音が、ひとつずつ世界から抜け落ちていくような静けさ。
成瀬は、わずかに肩を震わせた。
「……地球が“もう話したくない”って言ってるみたいですね。」
その声には恐怖ではなく、
理解しようとする者だけが持つ切実な敬意があった。
天野はゆっくりと空を仰いだ。
影の向こうで、何かが深く息を吸い込んでいる気配がした。
「なら、俺たちが聞く番だ。」
「え……?」
「地球が沈黙したなら、
その沈黙の“意味”を聞き取るのが、俺たちの役目だ。」
成瀬は息を呑んだ。
その瞬間、風が──止まった。
葉擦れもなく、人工のファンの音すら、どこかへ吸い込まれたように消えた。
大気がひとつ、大きく沈む。
それはまるで、
地球が長い長い“吸う息”を始めた瞬間だった。
世界が、呼吸を思い出す前の、
深淵の静けさ。
。
♢ 静かな冬
黒い柱が現れてから一か月。
人々は、その存在に“慣れ”始めていた。
ニュースはやがて日常に埋もれ、
街の子どもたちは空に浮かぶ黒い影を「天の糸」と呼び、
学校では「観測塔が作る気候現象」と教えられた。
天野はラボで、かすかに震えるモニターを睨んでいた。
世界各地で観測された大気データは、すべて微妙に“揺れて”いた。
酸素濃度は緩やかに下降している。
だが誰もそれを「危機」とは呼ばなかった。
政府は経済の混乱を避けるため、
酸素量のデータを「機密扱い」とした。
各国の報道機関は沈黙し、
“呼吸不安症”という名の精神疾患が流行語になった。
夜、研究棟の窓から外を見下ろすと、
街灯の明かりが霞んで見えた。
まるで大気そのものが薄い膜をまとっているように。
「……このままだと、冬を越せない。」
天野は小さく呟いた。
その予感は的中した。
冬の初め、北欧で異常寒波が発生。
気温は-60℃まで下がり、大気循環の流れが途絶えた。
世界中の風向きが乱れ、
気象衛星の画像は、まるで地球が息を止めた瞬間を映しているようだった。
エレナ・コロフスキー博士からの通信が入る。
「天野、酸素が氷結を始めた。
これは化学的では説明できない。……“生きている大気”が、凍りついている。」
通信の背後で、何かが崩れる音がした。
エレナの声が途切れ途切れになる。
「もし……もしもこのまま酸素が凍結したら……
我々は、“呼吸できる氷”に閉じ込められる。」
「酸素そのものは消えない。ただ、凍りつき、岩や海や氷の中に沈んでいく。
肺が届かない場所に隠されてしまえば、それはもう、存在しないのと同じだ。」
画面が暗転し、通信は途切れた。
その夜から、世界中の都市で電力障害と酸欠が同時に発生した。
翌朝、天野が研究所の屋上に立つと、
遠くの空に見慣れた“黒い柱”が、分裂しているのが見えた。
数は増え、影は濃く、空は暗い。
黒い柱は成層圏で枝分かれし、まるで巨大な根を張るように広がっていた。
「吸っている……」
天野は呟いた。
「地球の肺を、根こそぎ。」
天野はモニターを見た。
「今の大気……標高三千五百メートル級の酸素量だな。
普段山に登らない人間には、思考が遅れ始めるレベルだ。」
研究員がつぶやく。
「高地順応に最短でも一週間は必要です。
だが、都市の八割は準備もなく“突然の高山”に放り込まれたも同然です。」
空調の効いた部屋ですら呼吸が重いのは、
もう環境のせいではなかった。
世界は“静かな呼吸戦争”へと突入した。
(第二章 黒い柱(Part 5)に続く)
本作はほぼ完結しています。加筆修正中ですが、週に一編ペースで投稿予定です。




