呼吸の終焉 第二章 黒い柱(Part 3) 連番⑦
黒柱への攻撃が行われたが、何も変わらない。相変わらず酸素危機は続いている。科学者は困惑し、世界は混乱してゆく。
♢ 政府内部の混乱
首相官邸地下の危機管理センターは、
黒柱出現以降、二十四時間体制で稼働していた。
しかし、そこに漂う空気は
冷房の風が循環しているはずなのに 妙に重い。
部屋の中央に立つだけで肺がわずかに軋むような、
そんな“薄さ”とも“詰まり”とも違う感覚があった。
壁一面のモニターには、
黒柱の周囲に形成された気流のねじれ、
酸素濃度の下降カーブ、異常に低く垂れ込めた雲、
海面の奇妙な光の反射が映し出されている。
政治家たちはその映像を見つめながら、
互いの視線を避けるように散り散りに立っていた。
「これは……自然現象なのか?」
環境大臣が震える声で口を開いた。
気象庁の専門官は、顔色を失ったまま答える。
「自然ではあり得ません。
酸素だけが選択的に奪われています。
大気そのものが……“抜かれている”状態です」
「では、テロか?」
治安担当の副大臣が語気を強める。
科学技術顧問は静かに首を振った。
「物理的な爆発物や兵器なら、痕跡が残ります。
これは構造物にも海流にも接触していない。
負圧場による“場の操作”です。
人類の技術ではありません」
室内の空気がそこで一段薄くなった気がした。
誰かが小さく咳込む。
防衛省の制服組が前に出る。
「アメリカ軍は攻撃を実施したようです。
しかし結果は……全弾、柱の周囲で消滅」
「ロシアは?」
「すでに二度、巡航ミサイルを発射していますが……
こちらも同様です。
黒柱は、物理攻撃を“無視”しています」
「無視……だと?」
内閣官房副長官の声は裏返っていた。
そのとき、照明が一瞬だけ揺らいだ。
部屋全体が呼吸を忘れたように静まる。
空調の風が弱まった瞬間、空気がわずかに沈む感覚がした。
それを感じ取ったのは、科学参事官だった。
「……酸素が、官邸内でも下がってきている」
モニターには、
大気成分のリアルタイムグラフが表示されている。
O₂:18.2%
N₂:81.0%
首相が立ち尽くしたまま呟く。
「……人間は、何パーセントで危険になるんだ?」
科学参事官は即答した。
「17%で混乱が始まります。
13%で思考が崩れ、
10%で意識を失います」
沈黙。
その沈黙は、黒柱の“吸気”フェーズの一部のように
世界の空気を、政府中枢から奪っていく。
「どうすればいい……?」
誰が言ったのかは分からなかった。
官房長官が机に手をつき、震える声で叫ぶ。
「国連は何と言っている!
地球規模の危機に対して、なぜ足並みがそろわないんだ!」
外務省国際担当官僚が言いにくそうに視線を落とす。
「世界中の代表が……
酸素低下による頭痛や倦怠感を訴え始めています。
発言時間を短くせざるを得ず、オンライン接続も不安定で……
会議は開かれていますが、建設的な議論にはなっていません」
「ふざけるな!
じゃあこの星の運命は、 話し合いもできないまま決まるのか!」
怒号が飛び交う。
だが怒れば怒るほど、酸素は減り、声はかすれ、思考は鈍っていく。
まるで、
大気そのものが政治の機能を奪おうとしているかのようだった。
危機管理センターに緊急通信が入った。
「黒柱の内部から周期的な波動が確認されました。
しかし……これが何を意味するのかは不明です。
周波数解析の結果、既知の心拍・呼吸・脳波パターンからは
外れています。
人工衛星や艦艇のエンジン振動とも一致しません。」
室内にざわめきが走る。
首相が眉を寄せる。
「つまり……黒柱の内部で何か“反応”が始まったということか?」
科学参事官が慎重に答える。
「はい。ただし目的はまったくわかりません。
現時点では、大気との相互作用が加速しているように見える……
それだけです。」
「地球環境に影響が出る可能性は?」
「否定できません。
だが、どの方向に向かうのかすら予測不可能です。」
部屋の空気が重く沈んだ。
そのとき誰かが小さく呟いた。
「……我々は、正体不明の装置を刺激しすぎたのかもしれない。」
誰も動けなかった。
部屋の空気が薄くなり、
風が止まり、光がすりガラス越しのように濁った。
政府は“機能不全”ではなく、
大気の変質によって思考力そのものを奪われている
という現実だけが、静かに広がっていった。
♢ 天野研究所 ― 二つの沈黙
日本時間 午前4時。
天野は観測衛星〈AETHER-7〉の大気圧データを解析していた。
北太平洋と北極圏――二つの地点で、
異常な熱流と電磁ノイズが同時に発生している。
「成瀬、これを見ろ。
温度上昇が瞬間的に二十万ケルビン……自然現象じゃない。」
天野は表示されたスペクトルを見て息を飲んだ。
〈AETHER-7 大気スペクトルログ〉
・O₂ の回転・振動モード(ν₁, ν₂)に 局所的な吸収谷
・黒柱周辺のみ特異的に発生
・熱流は地殻深部まで直線的に連結
・周囲の“周期波形”が、地球深部のレイリー波周期に近似
天野
「……地震波の周期と一致?あり得ない……。
これは装置というより……“連結”だ。」
AIの応答
《黒柱の波動は、地殻深部の振動と同期しています。
外部構造物ではなく、地球内部との相互作用体の可能性があります。》
天野
「相互作用……?じゃあ、あれは単なる外部物じゃない
……地球の一部が……?」
言葉の続きが出なかった。
AIが応答する。
【衛星観測ログを解析中。
電磁パルス波形は、核もしくは高出力兵器の可能性95%。】
天野は息を詰めた。
「……やったのか‼
アメリカも、ロシアも。」
画面には、地球の二つの場所で渦巻く熱の斑点が映っていた。
それはまるで、“地球の両肺が同時に焼かれている”ように見えた。
成瀬が低く告げる。
【酸素濃度の急減を確認。海洋からの再供給反応、停止。】
モニターには、
消えゆく艦隊と思われる輝点と、上空へ向かって伸びる新しい光の柱。
それはまるで、
地球が深呼吸をする瞬間のようだった。
天野は椅子にもたれ、ゆっくりと目を閉じた。
「……人類は、呼吸の源を攻撃した。
科学ではなく、恐怖で息を選んだんだ。」
天野は拳を握りしめた。
「地球はまだ息をしている。
でも、それは――痛みをこらえている息だ。」
外では、夜明け前の風が吹き始めていた。
だがその風には、温度がなかった。
♢ 沈黙する海
海面が静まり返った。
爆発音も、衝撃波もない。
ただ、黒い柱は微かに赤く光り、
その表面から波紋のような“呼吸パターン”が拡散していった。
ペンタゴンの観測官が叫ぶ。
「黒柱の波形が変化──生体信号に近い反応を検知!」
「……生きている?」
突然、全ての通信衛星が90分間、沈黙した。
信号は届かず、制御もできない。
軌道上の観測衛星は地球を撮影し続けているはずだったが、
電離層が“凍りついた壁”となり、
地上へ一切のデータを返せなくなった。
人類はその瞬間、
宇宙規模の盲目に陥ったのだ。
研究者たちは
“黒柱が通信遮断目的で動いた”と推測した。
♢ 反応と封鎖
アメリカ政府は攻撃失敗を即座に秘匿した。
公式発表には、
「海底火山活動による大規模電磁障害」
という無難な説明が添えられた。
だが作戦に参加した航空士たちに、
不可解な症状が出始めた。
「……耳の奥で、一定のリズムの“圧”が揺れている。」
「寝ていると、胸が勝手に上下する感覚がするんだ。
自分の呼吸じゃない……誰かの。」
海上クルーたちは、
「寝てるとさ、波じゃない“上下”を感じるんだよ。
船が揺れてるんじゃなくて、
海そのものが息してるみたいな……。」
「エンジン切ってるのに、床から“心臓の鼓動”みたいな
振動が伝わってくる。」
軍医は疲労とストレスによる一時的な錯覚として処理した。
しかし症状は一部の隊員に共通しており、
記録された心肺データにも、
通常では考えられない“外部同期”のような揺らぎが混入していた。
その頃、世界各国の短波ラジオノイズの観測所でも、
同じ周期の微弱なパルスが検出されていた。
だれもまだ理解していなかった。
理解の範囲を超えていた。
♢ 米軍機密報告書(抄録)
【CLASSIFIED / TOP SECRET】
SUBJECT: BLACK COLUMN RESPONSE – OPERATION SILENT SKY
LOCATION: PACIFIC / COORDINATES REDACTED
INCIDENT SUMMARY:
EMP STRIKE INITIATED AT 03:47Z. NO STRUCTURAL DAMAGE OBSERVED.
ALL AIRCRAFT LOST CONTACT. BIO-ELECTROMAGNETIC RESPONSE DETECTED.
HUMAN BRAINWAVE INTERFERENCE LOGGED.
RECOMMENDATION: TERMINATE ALL DIRECT ENGAGEMENT.
STATUS: UNKNOWN.
END OF TRANSMISSION.
♢ 沈黙の報道 ― ロシア連邦情報庁通達
モスクワ時間 午前9時。
国営通信〈RTN〉は、
北極圏の閃光についてこう報じた。
『自然発生的な極光活動による一時的通信障害。
政府当局は安全を確認済み。
放射線・爆発等の被害は存在しない。』
同時に、SNSとニュースサイトは次々に遮断された。
「真実」を伝えようとする民間研究員の投稿は削除され、
複数の通信技師が拘束された。
クレムリン地下司令室では、
科学顧問団が政府代表に詰め寄っていた。
「攻撃後から、大気データが急激に乱れています!」
「酸素濃度の減少速度が……説明できないレベルで加速している!」
政府側は冷たく言い返す。
「敵性物体を放置するわけにはいかなかった。
国防として当然の判断だ。」
しかし老科学者が震える声で言った。
「問題は“攻撃が正しかったかどうか”ではない。」
「我々は、現象の正体を理解していない……。
何を破壊したのかすら、わからないのです。」
沈黙が落ちる。
別の科学者が続けた。
「ひとつだけ確かなのは――
大気は国境を選ばない、ということです。」
部屋の空気が一層重くなった。
報告書には、“第八柱の沈黙確認”とだけ記された。
その言葉の裏で、北極圏の風速はゼロを記録した。
♢ 国際報道の断絶
数時間後、欧州各国の通信網が遮断され、
国際宇宙局の観測データも暗号化された。
アメリカは「海上自然災害」、
ロシアは「極光現象」。
どちらも“偶発的自然現象”として世界に発表された。
だが、各国の科学者ネットワークでは、
匿名のデータ共有が密かに始まっていた。
日本の研究所にも一通の暗号通信が届く。
【北極圏観測データを送信。
酸素濃度急降下、電磁異常。
これは自然ではない。】
天野はその送信者名を見て息を呑んだ。
「E.KOLOVSKY」――エレナだった。
彼はデータを展開し、
北半球の大気図を呼び出した。
そこには、アメリカとロシアの攻撃地点を結ぶように、
一筋の黒い線が走っていた。
それは――地球の“呼吸を裂く亀裂”のようだった。
国際緊急会議が秘匿通信オンラインで開かれたが、
画面に並ぶ代表者たちの顔は疲れ切っていた。
風が重い。
空気が薄い。
光が濁っている。
それらの変化は、
数字以上に、人間の心を侵蝕していた。
「攻撃にも耐性がある」
「そもそもあれは“物質”と言えるのか?」
「人工物にしては意味不明だ」
議論は噛み合わず、
風のない部屋の中に、
人々の焦りだけが熱のように滞留した。
その会議の最中、
天野の端末に、ひとつの専用チャンネルが割り込んだ。
――“未解読信号検出”。
黒柱の内部から発されたものだ。
光ではなく、音でも電波でもない。
それは、空気そのものを震わせる“呼吸のような波”だった。
成瀬がモニターを見ながら言った。
「先生……これ、黒柱の活動波と同じです。
でも、周期が人間の呼吸に一致してます。」
天野は、画面を食い入るように見つめながら呟いた。
「つまり、柱は“攻撃を吸収した”んだ。」
「どういうことですか?」
「人間の暴力を、地球の呼吸に変換した。
攻撃すら、息の一部にしてしまったんだ。」
「これは……呼吸だ。
でも、人間でも、地球でもない。
“誰か”の息だ」
天野には、それが黒柱と地球を合わせた
“第三の肺”の脈動のように思えた。
人類の放った暴力でさえ、そのリズムの中に取り込まれ、
整えられていく。
成瀬は震える声で言った。
「……先生、人間はもう、地球の敵なんですね。」
「いや。
地球はまだ、息を合わせようとしている。
それを止めているのは、俺たちだ。」
空気が震えた。
風が止んだ。
そして、世界は気づき始めた。
――これは侵略ではなく、
“世界の共有呼吸を奪い取る行為”なのだ、と。
(第二話 黒い柱 Part 4に続く)
酸素濃度18.0% まだ序の口ですが、混乱は一気に進みます。人類が経験した事がない領域に進みます。




