呼吸の終焉 第一章 静かな侵略 Part 4
Part 4です。いよいよ物語が動き始める前兆が出てきます。
♢ 成瀬との出会いへ
筑波の研究所。
新設された「地球呼吸循環システム解析室」。
そこで初めて、天野は成瀬遥と出会う。
彼女はデータ解析担当として派遣された若き研究者だった。
冷静で、論理的。
しかしどこか、天野の中の“過去のエレナ”を思わせるものがあった。
成瀬遥は、研究室のドアをそっと閉めると、
窓の外の木々を一度見てから天野の方に向き直った。
「……変なこと言いますけど」
彼女は小声で前置きしてから続けた。
「私、風が止むのが苦手なんです。
空気が動かなくなると……胸の奥がざわつくというか。」
天野は思わず目を瞬かせた。
母も、結衣も、“風”を特別に語った人だった。
その二人とは全く違うはずの若い研究者が、
同じ言葉を口にしたことに驚いた。
「先生は……」
成瀬は迷いながらも問いかけた。
「風が止まる瞬間を、経験したことがありますか?」
天野は静かに笑った。
「まだないよ。
でももし止まったら……」
彼は窓越しの空を見上げた。
「必ず動かしてみせる。
風も、空気も、もう一度。」
成瀬の表情に、ほっとした色が浮かんだ。
その微かな安堵が、
のちに二人の運命を結びつける最初の揺らぎだった。
しかし、彼の中では、科学と“祈りが同じ呼吸をする事があるのだろうか?
と問うていた。
♢ 再会 ―成瀬との出会いと研究の継承
その後、天野は研究に没頭する日々を過ごした。
家族を愛し、家族に愛され、充実した人生を進んでいた。
研究所の一角にある窓のない実験室には、
常に人工光が灯り、培養槽のポンプが微かに振動していた。
彼はそこに籠もり、海洋プランクトンの呼吸速度、
大気中微量成分の揺らぎ、前世紀の気候データの再解析に没頭した。
だが、仕事以外では、やはり家族のことを思い出す。
ある朝、
小学生になった娘・美桜が研究所に来る前の天野に
興味津々の眼差しを向けた。
「パパ、今日ね、“空気の実験”したい!」
キッチンのテーブルには、
美桜が持ってきたペットボトル、風船、ストロー。
天野は苦笑しながらも並べてやった。
「じゃあまず、息を“見える形”にしてみよう。」
美桜は目を輝かせて風船を膨らませる。
パンッ──と膨らむたびに、彼女は笑いながら言った。
「パパの息だー! 生きてるみたい!」
天野はその言葉にふと胸を突かれた。
娘の笑顔は、世界のどこよりも温かい“呼吸の証”だった
ある夜、
天野は残業の合間に研究所の屋上へ出た。
街は冬の気配を帯び、高層ビルの窓が光の粒のように瞬いていた。
風が吹いた。
だがそれは、ここ数年で感じたことのない“鈍い風”だった。
その瞬間、母・恵子に幼い頃教わった言葉が蘇る。
──風は、地球が息をしている証拠よ。
ときどき苦しい日もあるけれど、地球は必ず呼吸を続けるもの。
娘が眠りついた後、結衣はリビングの灯りを落とし、
天野の隣でワインを少しだけ口にした。
「今日、美桜がね、
“空気は透明なのに、なんで生きてるの?”って言ってたわ。」
天野は目を細める。
「……難しい質問だな。」
「でも、あなたなら答えられるでしょ?
あなたは“見えない世界”を守る仕事なんだから。」
結衣の言葉は冗談のようで、どこか核心を突いていた。
しばらくして、ベランダから小さな風が流れ込む。
結衣はそよぐカーテンを見ながら囁いた。
「風って、優しいね。
人がいなくても、世界はちゃんと息をしてる。」
天野はその言葉を胸にしまい込んだ。
この家族を守ること――
そのために自分は研究をしているのだと。
研究所に戻ったある夕暮れ、古いノートを整理していると、
亡き父のフィールドメモが一冊だけ見つかった。
〈地質層は、地球の“呼吸の痕跡”だ〉
〈岩は語る。風の時代。火の時代。水の時代〉
〈大地は一度止まっても、必ずまた動き出す〉
天野は指でその文字をなぞりながら、
幼い頃、父と火山帯を歩いた日のことを思い出した。
息が苦しくなるほど坂を登ったとき、父は笑って言った。
「苦しいのは、生きてる証拠だ。
地球もな、お前と同じだ。」
父の声が、今になって胸に響いてくる。
♢
そして、天野は「惑星大気呼吸モデル」を提唱し、地球の酸素循環を
“生態と大気の共同作業”として数理化しようとしていた。
そんなある春の日、研究室のドアをノックする音。
「助手の募集、まだありますか?」
記憶の奥底から立ち上がるのは、若き研究者・成瀬遥の姿だった。
彼女の眼差しは透き通り、まるで新鮮な空気を生み出す感性を備えているようだった。
「私は、数字ではなく“風の気分”を観測したいんです。」
天野は笑って言った。
「なら、うちに向いてる。」
こうして、成瀬遥は天野の助手となった。
彼女は実地観測を好み、風を読む勘に長けていた。
「先生、この風、湿りすぎてます。
プランクトンの活動が鈍ってる。」
成瀬の言葉に、天野は顕微鏡映像を呼び出した。
微細藻類が、わずかに光合成を止めている。
「……まさか。気のせいだろう。」
天野は小さく眉をひそめた。
しかし、メモに残すのに十分すぎる違和感だった。
♢ 異変の兆候
研究所のモニターには、
地球全体を覆うデジタルの“肺”が映し出されていた。
大気中の酸素濃度、二酸化炭素、メタン。
海面温度、海流ベクトル、極地氷床の反射率。
それらが、ゆっくりと動く模様となって、画面の上で呼吸している。
「先生、ここの値、また微妙に下がってます」
成瀬が隣の端末から声をかけた。
指先で示されたのは、 大気酸素濃度の小さな数字だった。
21.0%から、20.8%へ。
「誤差の範囲じゃないか?」
「そう思いたいですけど……」
成瀬は、グラフを拡大した。
時間軸に沿って、緩やかな下り坂が続いている。
「“傾き”は誤差になりませんよ」
玲司はそのカーブを、指でなぞった。
――地球の息が、ほんのすこし、浅くなっている。
そんな感覚が、背筋を冷たく撫でた。
「外に出てみるか」
二人は、研究棟の屋上へ出た。
風が吹いていた。
だが、それはどこか“薄い”風だった。
街のビル群の間を抜けるはずの風が、
今日は重たく、何かに引き留められているように感じられる。
空はよく晴れているのに、青さが一段階抜け落ちている。
光は強いが、どこか冷たい。
成瀬が目を細めて言った。
「音が、少ないですね」
「音?」
「ええ。
風が街を撫でる音が、いつもより……
“平べったい”」
玲司は、昔の縁側で母に言われた言葉を思い出していた。
風が一瞬止まるときの、あの妙な静けさ。
「――地球が、“息を吸い込む前”なのかもしれないな」
彼は冗談めかして言った。
「じゃあ、そのあと吐き出すのは、 どんな空気ですか?」
成瀬の問いに、玲司は答えられなかった。
ただ、遠くでかすかに聞こえる都心のざわめきが、
いつもよりも薄く、遠く感じられた。
観測衛星「みずほIII」からデータが届く。
酸素濃度が0.03%低下。
そして、海洋データを見るとプランクトンの酸素生成効率が
前月比で5%落ちている。
「先生、これは偶然じゃありません。」
「どこで止まってる?」
「北太平洋……深層域です。」
天野は黙り込んだ。
「地球の心臓部だ。」
海は呼吸していた。
潮の満ち引きのように酸素を吐き出し、吸い込みながら。
しかし、そのリズムが乱れ始めていた。
♢ 静かな夜
夜の研究所は、いつも冷たかった。
金属と消毒薬の匂いが漂い、
モニターの光だけが二人を照らしている。
成瀬遥は観測データを睨みながら、
ゆっくりと息を吐いた。
「……おかしいですね。今夜は風がほとんど動いてない。」
天野は視線を上げた。
「観測塔の数値もゼロか?」
「ええ。海風も陸風も止まってます。
それどころか、潮の満ち引きの周期まで乱れ始めてます。」
天野は立ち上がり、ガラス越しに夜空を見た。
「潮が止まるなんてことはない。
……地球の息が詰まってる。」
月は夜空を照らしている。
満月では無いが、潮の満ち引きを怠るほど怠け者でもない。
成瀬はその言葉を、静かに繰り返した。
「地球の息……」
彼女の声には、いつもの軽やかさがなかった。
長時間の観測に疲れ、頬は青白い。
それでも目は真っ直ぐだった。
「先生、本当に“呼吸している惑星”なんですか?」
「そう信じている。
でも、今夜の空気は——まるで、何かを我慢してるみたいだ。」
成瀬はため息をつき、
「人間と同じですね。」と呟いた。
「怒りも悲しみも、息を止めてしまうと消えるように感じるけど……
本当は中で溜まってるだけ。」
天野はその言葉にハッとした。
彼女の観察眼は、科学を超えていた。
「……君は理論家よりも詩人に向いてるかもしれないな。」
「先生の弟子ですから。」
二人は、少し笑った。
研究所に笑い声が響くのは久しぶりだった。
成瀬はコーヒーを差し出した。
「冷めてますけど、カフェインは残ってます。」
天野は受け取り、一口飲んで苦笑した。
「……酸味が強い。」
「今の空気の味ですよ。」
彼女はモニターのグラフを指差した。
「見てください。酸素の変動が呼吸みたいになってます。
吸って、吐いて、また止まって……
でも、止まる間隔が、少しずつ長くなってる。」
「地球が、ため息をつき始めたんだ。」
成瀬は小さく頷いた。
「先生、もし本当に地球が生きてるなら、 私たちはその体の中にいるんですよね。」
「そうだ。海は血液で、風は肺。
僕らはその中で呼吸してる微生物みたいなものだ。」
成瀬はその言葉を聞いて、ゆっくりと窓の外を見た。
「じゃあ、もしこの星が怒ったら、 私たちは……排出されるのかもしれませんね。」
沈黙が落ちた。
外の空は曇り、街灯の明かりが霞んでいる。
天野は言った。
「怒ってるわけじゃない。
……ただ、苦しんでるだけだ。」
成瀬は彼の横顔を見つめながら、
初めて“科学者の孤独”というものを理解した気がした。
夜明け前。
観測塔からのデータが一斉に乱れ始めた。
酸素濃度が、また0.03%下がる。
成瀬が息を呑んだ。
「止まりません……下がり続けてます!」
「停電じゃないか?」
「いえ、これは……実データです!」
天野は空を見上げた。
東の空に、黒い筋のような影が一瞬だけ走った。
だが次の瞬間には消えた。
「見たか?」
「はい。でも、雲じゃありません。」
二人は黙ったまま、窓の向こうの薄明の空を見ていた。
世界が、呼吸を忘れた朝だった。
その日の夜。
世界の海の向こうで、
まだ誰も知らない“黒い影”が、 静かに立ち上がり始めていた。
海面から垂直に伸びる、陽光を吸い込んだような黒。
風をねじ曲げ、光を飲み込み、 周囲の空気の流れを変えていく異物。
だが、その姿を、 まだ誰も「黒い柱」と呼んではいなかった。
天野玲司のいる研究所のモニターには、
ただ一行、 小さな異常値だけが記録されていた。
――“局地的酸素濃度の低下”。
数字たちは、まだ物語になっていなかった。
それが「静かな侵略」の第一歩であることに、
このときの人類は、誰ひとりとして気づいていなかった。
♢空気の異変 ― 科学的予兆
「この誤差……どう見ても観測ミスじゃない。」
成瀬がスクリーンを拡大した。
酸素濃度:20.89% → 20.64%
減少率:わずか0.25%。
だが、数値よりも重要なのは“傾向”だった。
天野は指でグラフをなぞる。
「このカーブ……周期性がある。
地球全体で、呼吸が浅くなっている。」
成瀬が顔を上げた。
「人間で言えば、過換気症候群の前段階ですね。」
天野は頷いた。
「つまり、地球が息苦しがっている。」
外は快晴だった。
だが、研究所の外の空気はどこか重く、
吸っても吸っても満たされないような違和感があった。
その晩、成瀬は実験棟の外でつぶやいた。
「風の音が薄い……まるで息が止まりかけてるみたい。」
天野は机のノートに一行を書きつけた。
『風が止まった。
それでも、僕らは息をしている。
地球の苦しみを分け合うように。』
成瀬は小さく頷いた。
「先生、それ、論文じゃなくて詩ですね。」
「いいんだ。今夜は科学よりも、祈りのほうが正確だから。」
彼女は静かに笑った。
「そういうとこ、やっぱり好きですよ。」
天野は何も言わなかった。
ただ、窓の外で薄く光る雲を見つめていた。
その翌朝、観測衛星は“光を吸う雲”を捉えた。
それが後に“黒い柱”と呼ばれる現象の最初の映像だった。
『海の呼吸が止まり、大気が沈黙する時、
それを人は“異常”と呼ぶだろう。
だが地球にとっては、それもまた呼吸の一部なのだ。』
——天野玲司・研究ノートより。
♢ 冬の夜 ― 家族写真
雪の舞う夜。
三人はこたつを囲んでいた。
テレビのニュースでは黒海付近の異常な寒波が報じられていたが、
この小さな部屋だけは、穏やかなぬくもりに満ちていた。
結衣がカメラを手に取り、
「今日は久しぶりに三人で写真を撮ろう」と言った。
スマートフォンの時代でも、昔ながらのデジタルカメラで撮影する。
何故か記念に残そうとするとデジタルカメラを手に取ってしまう。
タイマーの赤い光が点滅する。
天野が美桜を抱き上げ、結衣が肩に手を置いた。
その瞬間――
窓の外を、小さな風が通り過ぎた。
カシャ。
写真には、三人の笑顔と、カーテンを揺らす風の軌跡が写っていた。
その一枚が、
天野のデスクの上で長く色を失わずに残ることになる。
(第二章に続く)




