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呼吸の終焉(End of Breath)  作者: 遠藤 世羅須
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呼吸の終焉 第一章 静かな侵略 Part 3

第一章 Part 3 です。

 ♢エレナとの出会い―酸素という奇跡


 NASAケネディ宇宙センター。

 若き天野は、エレナ博士のチームに研究生として配属された。

 彼女は白衣の袖をまくり、地球観測衛星のデータを食い入るように見ていた。

「玲司、あなたはこの酸素の変動をどう読む?」

「潮の満ち引きのようです。地球の肺が動いている。」

「肺、ね。詩的だわ。」

 彼女は笑いながら指で地球儀を回した。

「でもその“肺”を動かしているのは、海よ。」

 天野は頷いた。

「海洋プランクトン……ですね。」

 地球の酸素のほとんど──約70%は、

 実は海洋の微細な植物プランクトンが生み出している。

 光合成によって二酸化炭素と水から酸素を生成し、同時に地球の温度を調節している。

 残りの酸素は陸上植物や藻類によるもの。

 そして、火山活動や化学反応を通してゆっくりと“消費”され、数百万年単位で循環している。

 このバランスが、生命の“呼吸圏”を保ってきた。

 研究棟の屋上は静かだった。

 夜の風がゆっくりと流れ、遠くで街の灯が滲んでいる。

 天野は手にしていた資料を閉じ、深く息を吐いた。

 隣で同じように風に当たっていたエレナが、

 ふと口を開いた。

「ねえ天野君。

 もし……海のプランクトンが、全部死んだらどうなる?」

 何気ない口調だったが、その目はまっすぐだった。

 天野は言葉を失った。

 彼女が言う“もし”は、単なる想像ではないと感じたからだ。

「……地球の肺が潰れる。」

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。

 エレナは欄干に指を添え、窓越しに夜空を見上げた。

 その横顔には、星明かりよりも深い影が落ちていた。

「海はね、呼吸の源なの。

 地上の酸素のほとんどが、

 あの小さな光の粒たちから生まれてる。」

 プランクトンの光──

 彼女の声には、それを実際に見てきた者の温度があった。

「でも、それだけじゃない。」

 エレナは風に髪を揺らしながら続けた。

「プランクトンが死んで沈むたび、 海の底に“地球の記憶”が積もるの。

 大気の変化も、太陽の周期も、 星の光さえも、全部そこに刻まれていく。」

 天野は聞きながら、

 胸の奥にゆっくりと熱が溜まるのを感じた。

「だから海の記録を読むってことは──

 地球がどんな呼吸をしてきたかを知ることなのよ。」

「呼吸の……記録。」

「そう。

 人間が肺で息をしているように地球も海で息をしてる。

 そのリズムが乱れ始めたら、大気も、風も、全てが変わる。」

 エレナの声は静かだったが、

 その静けさが夜気を揺らすほど強く響いた。

「天野君。

 あなたが研究している“風”って……

 海の呼吸が空へ届いたものよ。」

 天野ははっとした。

 自分の専門である“大気循環”が、海の小さな生命の営みとつながっていることを、

 これほど鮮やかに語った人はいなかった。

「もし海の呼吸が止まったら──

 空の呼吸も止まる。

 そして風も消える。

 だから、地球は沈黙する。」

 沈黙したのは、むしろ天野のほうだった。

 夜風の音が、急に遠のいた気がした。

 エレナがそっと笑った。

「……だから私、海を研究したいの。

 小さな粒たちの呼吸と、 その奥にある地球の声を知りたい。」

 天野は言葉を返せず、

 ただ星空と海を結ぶ彼女の視線を追った。

 その夜、

 天野の中で世界の見え方がひっくり返った。

 風は単なる空気の流れではなく──

 海が空へ送る“呼吸の手紙”なのだと。

 エレナの言葉が、

 彼の人生の核心をそっと形づくり始めた瞬間だった。


 ♢


 東都大学の観測棟。

 天野は、学生たちがまだ寝静まっている研究室で、前夜のデータログを何気なく見返していた。

 ほんのひっかかりだった。

 気にしなければ、そのまま流れていく程度の、ごく小さな“揺らぎ”。

 風向きセンサーが、一瞬だけ逆転していた。

 たった0.8秒。

 風速にほとんど変化はない。

 しかし、風の向きだけが、あり得ない角度で跳ねている。

「……計器の誤作動か?」

 天野は眉を寄せ、モニターに顔を近づけた。

 他のセンサーと照合する。温度も湿度も、気圧でさえ安定している。

 風だけが、“息を詰まらせたように”揺れていた。

 ふと、モニターの端に別のログが赤い点滅を示した。

 〈大気酸素:20.8%〉

 少しだけ低い。

 許容範囲ではあるが、通常の誤差から外れている。

(こんな時間帯に酸素が下がるか?)

 外はまだ薄明かりで、風も弱い。

 本来、安定した時間帯だ。

 天野は自分の胸に手を当てた。

 呼吸はいつも通りのはずだ。

 だが、吐く息がやけに重たく感じられた。

 研究室の窓の外では、街路樹がほとんど揺れていない。

 風が“止まっている”のではなく、

 ――待っている

 そんな印象を受けた。

 母親の言葉がふいに脳裏をよぎる。

『玲司、空気ってね、本当は“動くこと”そのものが安定なんだよ。

 静まりかえった空気ほど怖いものはないよ』

 天野は苦笑した。

 あの母親の説明。それを思い出しただけだ、と思うことにした。

 再びモニターを見る。

 酸素濃度はいつの間にか 20.9% に戻っていた。

「……気のせい、か」

 天野はそう呟き、ログを閉じた。

 その瞬間――

 観測棟全体の蛍光灯が、「コッ」と小さく鳴って揺らいだ。

 停電ではない。

 電圧低下でもない。

 まるで空気が、建物の呼吸を一度だけ踏み外したような、

 そんな微細な“ずれ”。

 誰も気づかない。

 世界の誰ひとりとして、これを異常だとは思わない。

 ただ、地球がほんの少しだけ、息を吸うことを忘れた だけだった。


 ♢モスクワの冬 ― エレナとの再会


 天野はその後大学院に通いながら、国内の研究所で気候について研究を続けていたが、

 運命の歯車は彼を一研究員としては組み込まなかった。、

 彼は国際気候研究機構の派遣員として、今度はモスクワの研究所に滞在していた。

 氷の街。

 白い息がすぐ凍るような寒さ。

 研究棟の奥、薄暗い実験室で、

 エレナ・コロフスキー博士がコンソールに向かっていた。

 モニターには、北極圏の大気データが映し出されている。

「酸素濃度が局地的に変動してるわ。

 この範囲、まるで……誰かが“息をしていない”みたい。」

「“息をしていない”?」天野が首を傾げる。

「ただの観測データの誤差じゃないのか?」

 エレナは小さく笑った。

「あなたはいつもデータの奥を見ない。

 でも、空気ってね、数字じゃ測れない“意思”があるの。」

「意思?」

「地球も、私たちと同じ。

 疲れたときは、息を浅くするのよ。」

 天野はその言葉に返せず、

 ただモニターを見つめた。

 それが、後に“黒い柱”の原点となるとは、

 そのときはまだ誰も知らなかった。


 ♢帰国 ― 新しい命


 日本に戻った天野を待っていたのは、

 新しい仲間――一人の女性との出会いだった。

 彼女の名は風間結衣。

 学会の通訳として参加していた一般人だった。

 理系ではない。だが、彼女は天野の話を真剣に聞いた。

 結衣は空に目を細め、

 風が頬を撫でるのを感じながら言った。

「空気って、当たり前にあるようで……

 本当は、いろんな生き物が作って、守って、回してくれる“命の輪”なんだよね。

 あなたが研究しているのって、

 その輪が壊れないように見守る仕事なんじゃないかな。」

 天野は息を呑んだ。

「……そんなふうに考えたことはなかった。」

 結衣は笑う。

「私は専門家じゃないけど、

 あなたの研究が“誰かの呼吸”につながってるって信じたいの。」

「……誰かの呼吸?」

「うん。

 地球が息をしてくれるから、私たちも息ができる。

 その仕組みを理解して、ちゃんと向き合おうとしている人を見ると……

 なんだか安心できるんだ。」

 結衣は天野の方へ振り向き、

 やわらかく微笑んだ。

「玲司くんが“呼吸”を研究してるっていうのは、

 ただの仕事じゃなくて……

 あなた自身が“生きようとしている証”みたいに思えるの。

 だから私は、その選択を信じられる。」

 その言葉が胸に落ちた瞬間、

 天野の胸の奥で、

 温かいものがゆっくりと灯った。

 天野は、この世界を「美しい」と感じる感性を確かに見た。

 結衣の実家は、長野県の山あいにあった。

 山脈の切れ目を渡る風が、

 季節ごとにまったく別の表情を見せる場所だった。

 春には、柔らかい南風が椿や山桜の匂いを運び、

 夏には、山肌を越えてくる力強い上昇気流が家を包んだ。

 秋には、乾いた落ち葉を軽く舞い上げる北風が吹き、

 冬になれば、峰から吹き下ろす冷たい風が屋根瓦を鳴らしながら深い夜を通りすぎていく。

 風は常にそこにあった。

 結衣は幼いころ、それが当たり前だと思っていた。

 彼女の実家は、風を避けるように大きく軒を伸ばした古い木造の家で、

 廊下の端には祖母が手作りした風鈴がいくつも並んでいた。

 夏の夕暮れになると、、どこからともなく風が入ってきて、

 風鈴がひとつ、またひとつと鳴り始める。

 結衣はその音を聞きながら、

 祖母の膝に座ってよく言われた。

「結衣。風はね、

 見えないけれど確かにあるものなんだよ」

 結衣はその言葉を胸に刻んだ。

 だから彼女にとって、

 風は“あこがれ”や“自由”だけではなく、小さな命の脈動のようなものだった。

 天野と出会って風について語り合ったとき、

 結衣が深く頷き、嬉しそうに笑ったのは、その記憶が心の底にずっと残っていたからだ。

 結衣の実家の庭には一本の大きな樫があった。

 風に揺れるその葉は、季節によってまったく違う音を立てた。

 ざわっ、と高く鳴る日もあれば、

 風に押されて地鳴りのような音を響かせることもあった。

 結衣はよくその下で、本を読んでいた。

 風が強い日はページが勝手にめくれるので、それを押さえながら笑っていた。

(だから……結衣は風が好きだったんだな)

 と後に天野が独り思い返すのも無理はない。

 風が彼女の原点であり、彼女の生命観そのものだったのだ。


 交際が始まったのは、それから間もなくだった。

 休日の喫茶店、

 窓の外を流れる夕方の風を眺めながら、

 結衣はふと呟いた。

「風って、不思議ですよね。

 触れられないのに、ちゃんとそこにある。

 人の気持ちも、そうだったらいいのに」

 天野は返した。

「触れられないから……大事にしようと思えるんだよ」

 結衣は少し驚いたように笑い、

 その笑顔は風に揺れる木漏れ日のようだった。

 結婚を決めたのは、

 その“風の揺れ方”を、お互いが同じ速度で感じられたからだ。

 風がふたりを包み、ふたりを導いた。

 その年の冬、二人は結婚した。

 数年後、娘の美桜が生まれる。

 美桜が生まれた日の朝、

 天野は病室の窓に触れて驚いた。

 窓越しに吹き込む風が、やけに優しかったのだ。

 春の木々を揺らし、街の光をきらきらと踊らせるような、 柔らかい風。

(ああ……この風の中で、生きるんだ)

 美桜の小さな指が天野の親指を掴んだとき、

 彼は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

 そして天野が美桜を抱いた日の夜、

 病室の窓から吹き込んできた風を

「優しいね」と結衣が微笑んだのは、

 彼女が生まれ育ったあの場所の記憶が

 胸の奥でそっと灯ったからだった。

「美桜、お前に……美しい地球の空を残したいな」

 その言葉に、結衣は微笑んで頷いた。

 ♢

 家族の暮らしは、 光と風の中にあった。

 休日の公園では、

 美桜は風に揺れる桜の花びらを追いかけていた。

「とれない〜! まってぇ〜!」

 走るたび、小さな足元から風が生まれた。

 結衣はベンチでその姿を見て笑い、

 天野はカメラを向けながら、 この光景が永久に続くものだと信じていた。

 夜、窓を開けると、 外から優しい夜風が入ってくる。

 美桜はその風を胸いっぱいに吸い込み、 幸せそうに眠った。

(この子に……この空気を奪うような未来を与えてはいけない)


 仕事に没頭する日々の中で、

 彼女たちの存在、特に美桜の存在は天野にとって“もう一つの呼吸”だった。

 自分が子供の頃、日々感じ取っていた感性を受け継ぐその幼い声を、

 彼は何よりも研究の動機として胸に刻んでいた。

 休日の朝。

 窓のカーテンがふわりと膨らみ、淡い光が部屋に射し込む。

 美桜がベッドの上で丸くなりながら言った。

「パパ、風が部屋に入ってきたよ。」

 天野は新聞を置き、その小さな額に手を当てた。

「風はね、寝ている人を起こすのが好きなんだ。」

「じゃあ風も生きてるの?」

「うん、ちゃんと息をしてる。

 でもときどき疲れて、止まることもあるんだよ。」

 美桜は少し考えてから、

「そのときは、パパが起こすんでしょ?」と笑った。

 結衣がキッチンから顔を出し、

「はいはい、風よりも朝ごはんの時間ですよ」と言う。

 トーストの香りと一緒に、その家には静かな幸福が流れていた。


 ある夏の夜、天野は研究所から早めに帰宅した。

 ベランダに出ると、結衣と美桜が天の川を眺めていた。

「パパ! あの星、息してる?」

 美桜が指差す。

「星も呼吸してるよ。

 光を吐いて、闇を吸ってるんだ。」

「じゃあ、地球は?」

「……地球は今は、ゆっくり眠りながら働いている。」

 結衣が横で笑う。

「あなた、いつもそうやって難しい言い方するのね。」

「だって、本当のことだよ。」

 三人の間を、夏の夜風が通り抜けた。

 どこか遠くで風鈴が鳴っていた。


 ♢秋の午後 ― 科学博物館


 秋の休日。

 天野は家族を連れて科学博物館へ行った。

 展示室の片隅に「地球の呼吸」と題された模型があり、

 ガラスの中で青い球体が静かに回転していた。

 美桜が顔を近づけて尋ねた。

「この丸の中で、みんな息してるの?」

「そうだよ。

 魚も、鳥も、動物も、人間も。 同じ空気を少しずつ分け合ってるんだ。」

 結衣が微笑んで言った。

「あなたは本当に風の研究者ね。」

 天野は頷いた。

「いつか、この“分け合う仕組み”が壊れたら……

 僕はそれを直したい。」

 結衣が軽く彼の腕を叩く。

「そんな怖いこと言わないで。

 そのときはきっと、あなたじゃなくて、 美桜が直してくれるわ。」

 美桜は胸を張った。

「うん! だって風の博士になるもん!」

 その言葉に、

 天野は心の奥で小さく笑いながら――

 胸のどこかが温かく、そして少しだけ痛んだ。

 ♢

 その朝、風はやけにおとなしかった。

 窓を少しだけ開けておいたはずなのに、カーテンはほとんど揺れない。

 春先のはずの空気は、冷たくも熱くもなく、ただ、そこに沈んでいるだけのように感じられた。

 天野玲司は、マグカップを片手にキッチンの窓辺に立ち、薄く曇った空を見上げた。

 雲の切れ間から射す光は色を失ったように白く、遠くの山並みはいつもより少しだけ平板に見えた。

 コーヒーの湯気が立ちのぼり、その筋がまっすぐ上に伸びていく。

 いつもなら、細い煙は風に裂かれ、ふわりと横へ流れていく。

 今日は、まるで天井へ貼りつこうとするかのように、ゆっくりとまっすぐ上がっていくばかりだった。

「……風が、浅いな」

 玲司は思わず口に出していた。

 背後で、小さな足音がした。

 振り向くと、寝起きの娘・美桜が、毛布を肩に引きずったままリビングに現れた。

 まだ夢の名残りを瞳に浮かべている。

「パパ……きょうのかぜ、ちいさいね」

 美桜はカーテンの近くまでふらふら歩き、両手で布をつまんだ。

 カーテンは、わずかに膨らんではしぼみ、それ以上の動きを見せない。

「どうして分かるんだ?」

「だって……おとがしないもん。

 いつもは“しゃわしゃわ”っていってるのに」

 玲司は、思わず微笑んだ。

 子どもは、風の音に敏感だ。

 風鈴よりも、葉擦れよりも、小さな変化をよく聞いている。

「きっと、地球がまだ寝ぼけてるんだよ」

「ちきゅうも、ねぼうするの?」

「ああ。朝はね、人間だけじゃなくて、星もゆっくり目を覚ますんだ。

 今日はまだ、深呼吸の前なんだろう」

 そのとき、キッチンの奥から、味噌汁の匂いと共に声が飛んできた。

「二人とも、朝から変な話ばっかりしてないで、ごはん食べて。

 せっかくの“新しい空気”が冷めちゃうわよ」

 妻の結衣が、エプロン姿のまま振り向いて笑った。

 湯気が立ちのぼる鍋。その上を、白い蒸気が一筋、ゆらゆらと揺れて天井へ消えていく。

 美桜が椅子によじ登りながら、きょろきょろと辺りを見回す。

「ママ、“あたらしいくうき”ってなに?」

「ふふ。朝の空気はね、夜のあいだに、世界じゅうの木とか海とかが作ってくれた空気なの。

 昨日の心配とか、いやなこととかが混じってない“今日のぶん”よ」

 玲司は、その言葉に胸の奥が少しだけ疼くのを感じた。

 ――母も、よく同じようなことを言っていた。

 コーヒーをひと口だけ飲み、カップをテーブルに置く。

 窓の外では、薄く白んだ光が庭の草を照らしていた。

 その一本一本の葉先に、露が小さな光の粒になってしがみついている。

 空は静かだった。

 風の音のない朝は、どこか“息を止めている”時間のように感じられた。

 ◇

 幼い頃の朝も、こんなふうに静かだった。

 山あいの小さな町。

 両親と三人で暮らしていた木造の家は、

 裏手に細い畑と、降りていくと小川に出る斜面を抱えていた。

 玲司がまだ小学生だった頃。

 冬の寒い朝でも、台所だけは、いつも白い光と湯気で満たされていた。

 母は、湯気の向こうで味噌汁の鍋をかき混ぜながら、

 窓を少しだけ開けていた。

 冷たい空気がすうっと入ってくるたびに、湯気は新しい形にほどけていく。

「おはよう、玲司」

「……さむいよ、かあさん」

「いいの、いいの。

 朝いちばんの空気を一回きれいに入れ替えないと、“昨日の息”が残っちゃうからね」

 玲司は、眠たい頭のまま首をかしげた。

「きのうの、いき?」

「そう。家の中でみんながしゃべったり、怒ったり、笑ったりした息。

 あれがずっと溜まってると、部屋の空気が疲れちゃうのよ」

 母は鍋の蓋を少しずらし、立ち上る湯気を指で切った。

 白い蒸気が、するりと指先にまとわりつくかのように揺れる。

「だからね、朝の最初の風を入れてあげるの。

 “今日もよろしくね”って、家に新しい息を通すのよ」

 窓から差し込む光は、まだ低くて斜めだ。

 その光の帯の中を、小さな塵がゆっくりと漂っている。

 塵さえもが、光の中で生きているように見えた。

 母のそのしぐさを見ていると、

 空気というものが、ただの「透明な何か」ではなく、

 目には見えないけれど触れられる“生き物”のように思えた。

 ◇

 父は、もっと直接的にそれを教えてくれた。

 日が高く昇った頃、父はよく裏庭の倉庫にこもっていた。

 そこには、学校から持ち帰ってきた古い理科教材や、

 誰かから譲り受けた電気機器が無造作に積まれていた。

 父はこっそり「風洞実験装置」を作っていた。

 扇風機、紙の筒、簡易センサー、

 そして古いノートに書き込まれた数式の数々。

「玲司、見てみろ。

 空気は“押す”ことも“逃げる”こともする。 生き物みたいなんだ。」

 倉庫の中には、かすかな機械油と、木の古い匂いが漂っていた。

 細い光の筋が、壁の隙間から差し込んでいる。

「なに、それ」

「風のトンネルだ。

 ほら、この紙飛行機をここに入れて……」

 父は紙飛行機を筒の入り口にそっと浮かせ、スイッチを入れた。

 扇風機が唸り、風が筒の中に流れ込む。

 すると紙飛行機はふわりと浮き上がり、 筒の途中で、揺れながらも位置を保ち続けた。

 空気の流れが見えないはずなのに、紙飛行機の揺らぎが、

 そこに確かな力が存在することを教えてくれる。

「……すごい」

「空気はな、ただそこにあるだけじゃない」

 父は嬉しそうに笑った。

「押したり、逃げたり、迂回したりする。

 まるで、生き物だ」

 少年の天野は、紙飛行機が風洞の中で揺れながら浮く様子に目を輝かせた。

「空気って……触れるんだね。」

 父は嬉しそうに笑った。

「そうだ。

 見えないけど、ずっと僕らのそばにいる。」

 紙飛行機の先端が、わずかに震えた。

 父は続ける。

「人間の肺の中で起きていることも、

 地球の大気の中で起きていることも、本質的には同じなんだ」

「ちきゅうにも、はいがあるの?」

「あるとも。

 山と海と空が、その役割を分け合ってる」

 その言葉が、玲司の幼い胸に深く沈殿した。

 風洞の中で揺れる紙片の白さ、 差し込む光と、流れ去る風。

 もっと知りたい。地球の呼吸、風、全てを。


(Part 4に続く)


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