呼吸の終焉 第二章 黒い柱(Part 1)連番⑤
違和感から現実へ。そして・・・
♢ 最初の滴 (Beginning)
最初にそれを見たのは、アラスカ上空を飛ぶ民間輸送機のパイロットだった。
「雲の中に、黒い線が見える。」
航空管制が答えるより早く、通信が途絶えた。
次の“黒い柱”は、三陸沖で観測された。
海上から垂直に伸びる、漆黒の光の帯。
煙ではなく、影でもない。
ただ空を貫くように静止し、その周囲だけ風が止まっていた。
太平洋の海面はいつになく静まり返り、
波の線は鉛で縁取られたように重く沈んでいる。
本来なら朝日に照らされて銀色にきらめくはずの水面が、
どこか黄ばんだガラス越しに見えるような鈍い光を放っていた。
海風もまた弱かった。
潮の香りは薄れ、代わりに鉄のような冷たさが空気に混じっている。
風が海を渡ってくるはずの場所には、
“空気がためらっている”ような歪みがあった。
漁船の乗組員たちは、その日、誰もが同じ感覚を抱いていた。
――風が、海を避けている。
それを言葉にする者はいなかったが、
空気がなにかを拒んでいるかのような気配が、
海全体に広がっていた。
午前7時13分。
海上観測ブイの1つが沈黙した。
つられるように、近隣のブイも次々に通信を途絶える。
ただの故障――
そう思われたのは、ほんの数分だけだった。
漁船が一隻、消息を絶った。
気象衛星は異常なし。
地磁気観測所は強いノイズを検知した。
そのデータが天野のいる筑波の研究室に転送されたのは、発生から二日後のことだった。
その後“黒い柱”を目視したのは、海洋気象衛星のオペレーターだった。
「映像、これ……ノイズじゃないのか?」
「逆だ。
ノイズなら光が散乱する。
これは……光を飲んでる」
「海の上に、ブラックホールでも立ってるってのか……?」
画面に映し出されたのは、海のどまんなかに、影のように立ち上がる黒い線。
細いが異様に明瞭だ。
太陽光を浴びているはずなのに、 その部分だけ“完全な無”になっていた。
周囲の海面は波立たず、ただ沈黙していた。
黒柱の周囲30メートルほどの範囲で、
白い海鳥たちが奇妙な軌道を描きながら旋回し、やがて失速して海面へ落ちていった。
数名のオペレーターが同時に息を呑む。
「大気密度……異常低下。
局地的に酸素濃度が14%まで落ちてる」
「14……? ありえないだろ」
「こんなピンポイントで?」
オペレーションルームの空気は、
黒柱の映像に合わせて薄くなったように感じられた。
未確認事象発生から、わずか15分後。
政府の危機管理センターに異例の緊急招集がかかった。
壁一面のモニターには、
黒柱の影響範囲が刻一刻と拡大する様子が映し出されていた。
気流は柱の付近でねじれ、
風が不自然に曲がって海面を迂回している。
あたかも、柱の周囲だけが空気の“死域”になっているようだった。
「大気解析班、報告せよ」
センター長の声に、解析班の若い職員が震える声で答える。
「黒柱周辺にて、半径3kmの範囲で上昇気流が停止。
風速0.0……
まるで周囲の空気が、“吸い取られているような”状態です」
「吸い取られている?」
「はい。
柱の内部から、逆方向の圧力パターンが発生しており……
地上でいう“呼吸”に近い動きが観測されます」
オペレーションルームがざわつく。
「呼吸、だと?」
「まさか自然現象じゃない……」
新人観測員がつぶやく。
「ブラックホールでも現れたっていうのか……?」
「そんなはずはない。少なくとも重力レンズ効果は出ていない」
「テロ攻撃の可能性は?」
「わかりません、情報が限られています。」
政治家、軍関係者、学識者。
部屋中の視線が交錯し、
光の反射が壁に散った。
♢ 科学者たちの困惑
黒柱出現から二時間後。
国際研究チームの臨時オンライン会議が始まった。
画面に映るのは各国の大気科学者、地球物理学者、気象庁の専門班。
皆、顔色が悪い。
データが“理解の外側”にあるときの、科学者特有の沈黙が会議を満たしていた。
「まず確認します」
気象庁大気解析主任の倉本が口を開いた。
その声は落ち着いていたが、言葉の選び方は慎重だった。
「黒柱による大気の異常は……自然現象ではありません」
会議がざわめく。
「証拠は?」
フランスの研究者が眉を上げる。
倉本は複数のグラフを共有した。
「酸素濃度だけが“選択的”に吸収されている。
温度・湿度・圧力の変動が、黒柱を中心に人工的な直線を描いています。
これは自然の相関関係では成り立ちません」
アメリカの大気力学者が画面越しに息を呑んだ。
「つまり……兵器か?」
「兵器であれば、熱源・起点・噴出パターンが必ず残る。
ですが黒柱には――何もありません。
触れていない。押していない。
大気を内側に向かって“引いて”いるだけです」
自然と兵器の両方の否定。
つまり、分類不能。
ざわめきが広がる中、ロシアの地球物理学者リアノフが画面に顔を寄せた。
「……少し気になるデータがある」
彼が共有したのは地殻深部のレイリー波ログだった。
「黒柱が出現した直後から、地球自由振動の周期が約0.03秒だけ伸び、
振動の位相もわずかに遅れ始めている。
この遅延は極めて小さいが
、短時間でこれほど一様にズレるのは自然現象では説明がつかない。
あたかも、黒柱の“吸気”に合わせて地殻自体の揺れが、
外部のメトロノームに同期しかけているように見える。」
会議が一気に静まり返った。
「そんなはずが……」
誰かが呟いた。
リアノフは続ける。
「ただし、これは完全な同期ではない。
地球内部と外部構造物の相互作用……そんなものは前例がない」
沈黙の中、日本の科学者が口を開いた。
「……つまり、黒柱は地球の大気だけでなく、
内部振動の周期にも触れている可能性がある、ということですか?」
「触れているのか、あるいは――」
リアノフは一拍置き、低く言った。
「測っているのかもしれない」
測っている。
この惑星の呼吸と揺れを。
その言葉に、会議の空気がさらに薄くなったように感じられた。
その仮説はまだ弱い。
だが、この瞬間、科学者たちは初めて
黒柱が「外からの異物」というだけでは説明できない
という事実を共有した。
黒柱は、ただ立っているのではない。
――地球と、どこか深い層で“同期しようとしている”
♢
その頃、映像を見ていた天野玲司。
研究所の分析室に響く警告音。
画面には黒柱を中心に渦巻く気流ベクトルが描かれている。
その外側で 風速が突然ゼロに落ちていた。
天野が眉をひそめる。
「……成瀬、これは何だ?」
成瀬は息を呑んだ。
「風が……“止められて”います。
自然現象じゃありません。」
成瀬の声は珍しく震えていた。
酸素濃度や風速の値が、人工的な直線に沿って減少していく。
「でも、柱の内部では何かが上昇しています。
熱ではなく、密度……?」
「自然じゃないわ。
これは、“設計された”吸収パターンよ」
「誰がそんなことを……」
答えはもちろん、どこにもない。
だが、天野は画面の端に揺れる海面の光を見た。
黒い柱に吸われた波は、不自然に平坦な表面をつくり、
その上を、薄い光だけが滑っていた。
「地球が……息を、奪われている」
「O₂だけが……吸われている?」
成瀬が息を飲む。
天野は、黒柱の内部構造を示す波形を指差した。
「酸素分子は“1720ギガヘルツ”という
特定の周波数の電磁波に、とても強く反応する。」
「大気観測でよく使う帯域だ。
酸素がそこだけ光を吸ったり、出したりするから
濃度が遠くからでも測れる。」
「でも今は、その周波数が“ぐちゃぐちゃ”に乱れている。
まるで何かが酸素に“命令”しているみたいに……。」
「黒柱は、その帯域だけを“選択的に”吸収している」
「そんなことが可能なんですか?」
「自然界では不可能だ。
だが――設計された量子共鳴体ならできる」
画面の中で、空気の流れが黒柱へとゆっくり吸い込まれていく。
「これは、地球の“肺胞”を外部から吸い取る装置だ」
「これは気象現象じゃない。
“呼吸の逆流”だ。
地球の肺が詰まり始めている。」
言葉にした瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
天野たちが調べた結果、黒柱の物理特性は
この宇宙の物理法則では定義できない という結論に近づく。
黒柱は:
・熱を持たない
・質量が“変動”する
・放射線を発しない
・重力場に反応しない
・表面に分子振動がない
すべて “この宇宙の物質ではない” ことを示唆している。
そして最も異様なのは、
▶「黒柱の周囲だけ、宇宙背景放射の揺らぎが消える。
通常 2.7K の微細揺らぎが 完全にフラットになる。」
これは宇宙論的に見ると、
宇宙の“外側から”覗き込まれている状態 を示す可能性がある。
「CMB(宇宙背景放射)は、
宇宙全体どんな場所でも同じように見えるはずなのに……」
成瀬が眉をひそめる。
「消える? そんなことがあり得るのですか?」
「あり得ない。
ただ一つ例外があるとすれば……
そこだけ“宇宙ではない場所”になっているとき。」
天野は画面を指しながら言った。
「黒柱は、空間そのものを“外側から固定している”。」
♢
3日後、
同様の柱が日本海沿岸、台湾沖、太平洋赤道線上などで同時に観測された。
世界各地の衛星がその存在を報告したが、
ほとんどの国が情報を“自然現象”として処理した。
しかし、現場から送られた映像は異様だった。
柱の近くでは、鳥も虫も飛ばず、
エンジンは停止し、電子機器が焼けるように壊れた。
機体を包む見えない波に、一気に電流を吸い上げられたようだった。
♢ 政府の動き
日本政府は「黒柱対策特別調査委員会」を設立。
表向きは科学調査だが、実際には防衛省情報本部と
統合幕僚監部が主導していた。
「正体不明の物質。放射能反応はなし。
だが、磁場・音波ともに異常値。」
幕僚長は眉をひそめた。
「攻撃の可能性は?」
内閣情報官が答えた。
「現状では確認できません。
ただし、柱の内部からは不明な電磁波が発信されています。」
首相は短く言った。
「封鎖しろ。情報も国民も。」
「パニックを起こさせるな。社会経済を止めるわけにはいかん。」
数時間後、
三陸沖一帯は自衛隊によって封鎖され、
報道ドローンは撃ち落とされた。
通信も遮断された。
だが、SNSにはすでに“黒い塔”の映像が流れていた。
世界中のネットがそれを「異星からの構造物」と呼び始めていた。
♢ 封鎖区域
成瀬はテレビを見ながら呟いた。
「……政府が動きましたね。」
「いつも通りだ。未知のものを“敵”と認定する。」
天野は苦く笑った。
翌日、研究所の出入口が封鎖された。
防衛省の車両が乗り付け、黒服の男たちが押し寄せた。
「天野博士、観測データはすべて政府の管理下に置かれます。」
「どういうつもりだ。」
「国家安全保障の対象です。」
天野は静かに答えた。
「空気は国家のものじゃない。」
男たちは黙って書類を差し出した。
「命令です。」
成瀬が小声で言った。
「先生……やっぱり、何か隠してます。」
「政府も、防衛省も、真実を知らない。
彼らは“呼吸の意味”を理解していないんだ。」
♢ 黒柱現象の核心
夜、研究所に残されたデータを再解析した天野は、
ある事実に気づいた。
黒い柱は、すべて地球の酸素生成源
──海洋プランクトンの濃密海域に出現している。
衛星観測で、そこだけ海面が不自然な
エメラルドグリーンに染まるほどの湧昇域。
衛星のクロロフィル画像で、世界でもまれな
“濃緑の帯”黒潮と親潮がぶつかる三陸沖。
海底火山帯から湧き上がる微量元素と、
沿岸から流れ込む栄養塩がぶつかる、その狭い海域。
「……やはり。
これは自然現象ではない。
何者かが、地球の“呼吸機構”そのものを操作している。」
「柱の内部は――空洞じゃない」
天野は解析データを閉じた。
「空間そのものが沈んでいる。
重力とはちがう、負の圧力だ」
「つまり……?」
「酸素だけを引き寄せる“井戸”だ。
地球の大気が、そこに落ちていってる」
成瀬が息を呑んだ。
「先生、まさか……外から?」
「まだ断定はできない。
だが、この“沈黙”は人為的だ。」
黒柱の光信号には一貫した規則性と
生命活動の計測に似たパターンがある。
・呼吸
・脳波
・海洋循環
・大気組成
・光合成
・天候
これらすべてを “ひとつの言語”として解析している。
つまり黒柱は、
生命を滅ぼすためではなく、生命の“仕組み”を調べている。
人類から見れば破壊だが、
黒柱側の視点では 観測実験 の一部に過ぎない。
黒柱は「攻撃」をしているのではなく、
生命の呼吸を止めたとき
地球という惑星がどのように変化するかを
観察しようとしている。
彼らの会話を、研究室の天井カメラが密かに記録していた。
その映像は翌朝、防衛省のデータセンターに転送された。
♢ 政府報告書(機密扱い・抄録)
【極秘報】
発生地点:海洋プランクトン密集域
現象:空気流停止、酸素濃度変動、磁場歪曲
仮説:外的知性による地球環境制御の可能性
対応:報道封鎖、観測制限、学術情報の統制開始
備考:天野玲司博士および筑波研究所の監視を継続
成瀬はその夜、
窓の外に見える空の異変に気づいた。
月が、いつもより青白く光っていた。
まるで、大気のどこかで赤い色だけがそぎ落とされてしまったかのように。
「先生、また風が止まりました。」
「……もう始まっている。」
外では、防衛省のヘリが夜空を旋回していた。
彼らはまだ知らなかった。
その柱がただの“自然現象”ではなく、
地球の意志──あるいは外の知性が放った最初の呼吸停止信号だということを。
♢ 国際地球システム危機対策連盟 ― 「呼吸の正体」
地球の空が、わずかに色を失い始めていた。
大気の透明度が下がり、朝の光はどこか灰色を帯びていた。
ニュースは「花粉量の異常」と報じていたが、
本当の原因は酸素濃度の微減だった。
インドのデリーでは、
早朝ランニング中の人々が立て続けに倒れた。
チリでは高地での登山事故が急増。
アメリカ・コロラド州では、
酸素吸入器が家庭用品店の人気商品になっていた。
天野は画面に映るニュースを無言で見つめていた。
「まるで……地球が浅く息をしているみたいだ。」
成瀬が応えた。
「まだ誰も気づいていません。
でも、この数値は確実に、“風の質”を変えてます。」
天野は低く呟いた。
「……呼吸は、もう始まっている。」
黒柱は呼吸していた。
ゆるやかに膨らみ、次の瞬間、静かに沈む。
天野はその拍動の周期を解析しながら呟いた。
「地球の呼吸周期と同じだ……」
大地震のあとに、地球全体が数十分周期でわずかに膨らんだり縮んだりする。
その固有振動を、父康弘は“地球の呼吸”と呼んでいた。
成瀬が硬い声で問う。
「つまり、黒柱は何をしようとしてるんです?」
「地球の呼吸そのものを――書き換えようとしている」
部屋の空気が、冷たく沈んだ。
♢
封鎖から3日後、
急遽UN直轄。WMO・IOC・WHO・ISCなどから科学者が招集され、
「黒柱現象」の解析と各国政府への勧告を担当する。
国際地球システム危機対策連盟(IESEC)
が立ち上がり、
緊急オンライン会議を招集した。
画面には、二十数か国の科学者たちの顔が並ぶ。
映像の一部は検閲下にあったが、天野のチャンネルは独立していた。
「音声、入ってますか?」
成瀬が確認する。
「入っている。では始めよう。」
天野の声は低く、だが冷静だった。
ドイツ代表・ヘルマン教授:
「現象の共通点は“酸素発生海域”だ。
つまり黒柱は、酸素を収束している可能性がある。
生成ではなく、集積。地球規模の呼吸器だ。」
アメリカ代表・バリントン博士:
「馬鹿な。酸素を吸う“地球の肺”など存在するわけがない。
あれは兵器だ。電磁的・生化学的なテロ構造物だ。
中国か、あるいは――宇宙だ。」
ロシア代表・エレナ・コロフスキー(音声のみ):
「兵器? 違うわ。
もし兵器なら、もう私たちは呼吸できていない。
これは“調整”よ。
地球が酸素のバランスを取り戻そうとしている。」
「調整……?」天野が呟いた。
フランス代表・ラポルト博士:
「まるで惑星が、自ら吸い込みを行っているようだ。
だが、その原因が内部反応なのか、外的刺激なのかが問題だ。」
天野:
「外的刺激なら、“意志”があるはずです。
誰かが地球を操作している。」
中国代表・周博士:
「“誰か”ではなく“何か”だろう。
我々は外部知性との接触をまだ受け入れる準備ができていない。」
アメリカ代表・バリントン博士:
「レーダーもライダーも、黒柱の半径数十キロ内では風速ゼロを示している。
上空の雲も、そこだけまるく欠けている。
あれは“気象”じゃない。大気そのものを止めている“何か”だ。」
エレナ(通信越し):
「天野、覚えてる?
あなたと私が3年前に観測した“呼吸パターン”。
同じ周波数よ。
あれはただの自然振動じゃなかった。」
天野は息を呑んだ。
「つまり──黒い柱は、あの信号の“形”か。」
天野:
「皆さん。
これは戦争でも、神話でもない。
地球外知性と惑星意識が同期した現象だ。
我々は今、“呼吸の翻訳”を目の当たりにしている。」
会議がざわめいた。
バリントン博士:
「翻訳? そんな詩的な表現で片づけるな!
国は恐れているんだ。
呼吸が止まれば、文明も終わる。」
天野:
「止まるのではない、“変わる”んだ。
もしこれが本当に“呼吸の進化”なら、
私たちが息をしている空気は、すでに古い。」
沈黙。
その瞬間、会議の通信が一斉に途絶した。
黒い柱からの電磁干渉が強まったのだ。
沈黙の直前(会議終盤)
ノイズの向こうで、エレナの声だけが微かに残った。
『レイジ、もし聞こえるなら──地球は、誰かに話しかけている。』
そして、通信は途絶えた。
成瀬が震える声で言った。
「先生、今の……言葉。」
「ああ。
地球は、もう我々の議論を聞く段階を過ぎている。」
♢ 混乱
会議が途絶えた翌日、
各国の研究所から次々と異常報告が届いた。
・海面近くの魚が、呼吸不全で大量死。
・赤道直下では植物の光合成速度が低下。
・人間の睡眠時酸素飽和度が平均で3%落ちた。
ロンドンの研究員は報告書にこう記していた。
「空気を吸っても、疲労が取れない。
息をしているのに、世界が静かすぎる。」
天野はデータを見つめながら、
自分の肺の中でも“何かが鈍くなっている”感覚を覚えた。
それは、数字では説明できない違和感――
まるで、地球と人間の呼吸リズムがずれ始めたようだった。
成瀬が言った。
「先生、外に出てみませんか?
きっと、風の音が違って聞こえます。」
天野は頷き、研究所の外に出た。
木々がわずかに揺れていたが、葉擦れの音は弱かった。
風があるのに、風の“声”がなかった。
♢
研究所で黒柱の解析に追われる日々が始まっていた頃。
天野は久しぶりに自宅に戻った。
夕食のテーブルには、美桜が描いた風車の絵が置かれていた。
だがその風車は、どれも羽が垂れ下がり、動いていなかった。
「パパ、今日ね、外の風、ぜんぜん動かなかったよ」
美桜は無邪気に言った。
「公園の木も、じっとしてたの。
なんか変だよね?」
胸がひやりとした。
だが天野は笑顔を作った。
「春だからな。風が休みたい日もあるんだよ」
結衣が台所から振り返り、少しだけ眉を寄せた。
「玲司……最近、空気が重くない?
夕方になると頭が痛くなるの。
私だけ?」
彼女は自分の胸元を押さえた。
わずかに息が浅い。
天野は軽く肩に手を置き、
いつもの調子で返すことにした。
「気圧のせいだよ。季節の変わり目だし」
しかし、指先に触れた結衣の皮膚は驚くほど冷たかった。
その夜。
天野は眠る美桜の部屋をそっと開けた。
子ども用の小さな植物育成ライトの光が薄く揺れている。
布団にくるまった美桜は、寝息がいつもより浅い。
胸の上下が小さく、どこか不規則だった。
(……偶然だ。きっと)
そう言い聞かせながらも、
天野の胸に沈みつつあった不安は増していった。
そして世界は、
家族の“静かな異変”に気づく間もなく、
戦いの段階へと踏み込んでいった。




