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呼吸の終焉(End of Breath)  作者: 遠藤 世羅須
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呼吸の終焉 第三章 酸素戦争(Part 4) 連番⑬

酸素が貴重品になるなど誰が考えていただろう。当たり前にあるものが無くなる時、人としての資質が試される。

♢ 空気の密輸者たち


その頃、世界では“空気の闇市場”が広がっていた。

人工酸素を詰めたボンベが密輸され、

1本で一家が1日生き延びられるとされた。

本物の医療用ボンベだけではない。

病院から盗まれた酸素ボンベに、

粗悪な工業用酸素を継ぎ足してラベルだけ貼り替えたもの。

高地作業用の古いボンベに、

圧力ギリギリまで空気を詰めただけの“なんちゃって酸素”。

国家の配給システムから横流しされた医療用カートリッジに、

偽造の認証シールが貼られている。

どれも違法で、どれも命綱だった。


路地裏の一室で、黒いスーツの男が酸素ボンベを机に置いた。

「一時間ぶんだ。三万円だ」

塗装は新品同様だが、バルブの根元には削り取られた刻印のあとが見えた。

男は値段を口にしながら、薄笑いを浮かべる。

「医療グレードって言ってたじゃないか……」

父親が震える声で言う。

男は肩をすくめた。

「文句があるなら、配給センターの前に一晩並ぶといい。

 あんたの順番が回ってくる頃に、まだ息できてりゃの話だがな。」

挿絵(By みてみん)


テーブルの下には、さらに安いボンベが積まれている。

酸素濃度を半分に薄めた“ファミリーパック”。

子どもや高齢者用と称して値段を上乗せした“プレミアム・カートリッジ”。

本物と偽物と劣化品が、同じ値札の上で平然と並んでいた。


別の街では

闇クリニックが、救急で運び込まれた患者の使用済みボンベから残りを集めていた。

圧力計がゼロに落ちる前に回収し、わずかに残った酸素をまとめて一本に再充填する。

“リサイクル酸素”と称して、それもまた市場に流れていく。


政府が配る酸素レギュレーターの交換クーポンも、“空気通貨”として取引された。

ブレスレットや結婚指輪、通帳の暗証番号のメモ――

人々は、未来のあらゆる保証と引き換えに、その日一日の呼吸を買っていた。

窓の外では、国家の広報車が

「酸素配給は公平に行われています」と繰り返しアナウンスしている。

 薄い空気を吸い込みながら、部屋の中の誰も、その言葉を信じていなかった。


昔は“どこの国が敵か”を説明すればよかった。

今は、誰もが同じ空の下で息苦しそうにしている。

敵はどこの国にも属していない。“薄くなった空気”そのものだ。

国際ニュースはそれを「O₂戦争」と呼んだ。

だが、それは単なる経済戦争ではなかった。

酸素は新しい宗教になりつつあった。

「空気の神を信じれば救われる」と説く教団が生まれ、

人々は祈るように息をした。

「息を分け与える者こそ、真の救世主だ」

――そのスローガンのもと、爆破テロが相次いだ。

酸素供給所、医療倉庫、配管の集積所。

“呼吸の蛇口”になりうる場所が、狙われた。

人々はもはや“呼吸”という行為そのものに怯え始めていた。


 ♢ 決意


ある晩、研究所に政府の車列が現れた。

特別防衛省の要員が、研究データの提出を要求する。

「国家安全保障のためだ。酸素生成理論は軍事資源だ。」

天野は拒んだ。

「これは地球全体のための理論だ。」


だが、銃を突きつけられたのは天野の研究に対してだった。

成瀬は恐怖を押し殺して言った。

「先生、渡しましょう。命がなければ研究も続けられません。」

天野は黙ったままデータを差し出した。

政府の車が去ると、

彼は机に拳を叩きつけた。

「まただ。人間は、呼吸まで武器にする。」

成瀬は小さな声で言った。

「先生……私、もう黙って見てるのは嫌です。

 戦うことはできなくても、息を取り戻すことはできるはずです。」

天野は彼女を見つめた。

その瞳には、炎よりも強い決意が宿っていた。

挿絵(By みてみん)


研究所への弾圧が始まった夜。

天野は、誰もいない研究室の片隅で古い端末を開いた。

画面には、妻・結衣と娘・美桜の写真が映っている。

数日前に撮った、最後の動画メッセージだった。

『パパ、帰ってきたら一緒に星を見ようね。

おばあちゃんが言ってたの、“風は空の呼吸”なんだって。』

彼は黙って画面を閉じた。

「……そうだ、美桜。

 その風が、今止まりかけている。」

封鎖命令が出てから、家族とは連絡が取れなかった。

通信網は軍の管理下に置かれ、民間回線は切断された。

送信ログには“未配信”の赤い文字が並ぶ。


成瀬が静かに言った。

「先生……ご家族に伝えますか?」

「いや、もういい。

 俺が今ここにいる理由は、彼女たちの呼吸を守るためだ。」

天野は夜空を見上げた。

窓の外、黒い柱がゆっくりと光を吸い込んでいた。

まるで、世界の息を奪うように。


♢  O₂ネットワーク


彼らは政府の目を逃れ、

地下の研究者たちと秘密裏にネットワークを構築した。

“酸素を共有する”ための、仮想の呼吸圏。

データは暗号化され、世界中の研究者が匿名で参加した。

誰もが名前を捨てた。

ただひとつの目的──地球に呼吸を返すこと。


彼らはそれを“Reverse Breath Project”と呼んだ。

「もはや“国家間戦争”という枠組みは意味を失いつつあります。

 酸素と電力の供給権を握る者と、

 そこから締め出された者との戦争です。」

その中心にいたのは、天野の旧友であり、

かつてNASAで共に研究したエレナ・コロフスキー博士だった。


数年ぶりの通信。

画面越しに現れた彼女の顔は、

かつての穏やかさを失っていた。

「玲司、あなたたちはまだ息をしている?」

「かろうじて。」

「こちらはもう限界よ。大気は焼け、海は沸騰している。

 でも、まだ一つだけ希望がある。」

「何だ?」

「メタンハイドレートよ。」

天野の目が光った。

「……それは、地球の底にある“冷たい肺”だ。」

通信は途切れた。

その瞬間、天野の胸の奥で、

再び“呼吸”という言葉が脈を打った。

挿絵(By みてみん)


戦争の足音が近づく中、

天野は地下避難所に設けられた旧データサーバーを探っていた。

そこで、奇跡的に一つの家庭通信ログを見つけた。

それは、美桜が学校の課題で送ったビデオだった。

『パパ、今日ね、理科で空気のことを習ったよ。

 ビンの中でロウソクがすぐ消えちゃって……

 先生が、“空気がなくなると火は生きられないんだよ”って言ってたの。』

美桜は少し誇らしげに、天野に手を振った。

『だからパパのお仕事って、

 空気がちゃんとあるかどうかを守るお仕事なんだよね?

 すごいね、パパ。』


その声を聞いた瞬間、

天野は膝から崩れ落ちた。

「……ああ、光も、息も……全部、消えかけてる。」

外では、酸素生成プラントの奪い合いが始まっていた。

銃声と悲鳴。

だが天野の耳には、娘の声しか残っていなかった。

『パパ、また風が吹いたら教えてね。』

天野はモニターを閉じ、

「……必ず吹かせるさ。次の風を。」と呟いた。


♢ 求めうる世界で


酸素濃度が16%に落ちると、

人類の文明は鈍く軋みはじめた。

人の判断が遅れ、ミスが増え、現場が回らない。

炎は弱り、古いボイラーは不調を起こし、

空港は離陸制限で麻痺した――。


だが、人々はそれでも生きようとした。

愛する人の口に酸素マスクを押し当て、

自分の息を分け与えた。

それは、生存のための争いではなく、

“愛の延長”としての呼吸だった。


研究所の窓はすべて二重の断熱層で塞がれ、

換気は酸素レギュレーターと除湿機を通した空気だけだった。

「東南アジアやインド洋に比べれば、日本列島はまだ救われている方だ。

 黒柱の配置と偏西風のパターンのせいで、

 北太平洋上空のメタン濃度のピークが、少しだけ東にずれている。

 その“わずかなずれ”が、俺たちに数年分の余命をくれている。」

「ここはまだマシですよ」

 

成瀬はモニターの世界地図を指さす。

「このラインより南の都市は、もう“外で息できる時間”が一日のうち数十分しかない。」

「こっちは冷房の効いた研究所でデータを眺めてる。

 赤道直下の街では、エアコンもない部屋で子どもが窓際に並んで

 酸素マスクの順番を待ってる。

 世界の不公平を、数字で突きつけられる仕事だよ、これは。」


天野は思った。

「もしかしたら、地球は人間の“優しさ”を確かめているのかもしれない。」

彼は再びノートを開いた。

『酸素とは、愛の形だ。

分け与えることでしか、生き延びられない。』

成瀬はその文字を見つめ、

「先生、もし地球が見ているなら……

 私たち、ちゃんと息をしてるって伝えましょう。」

天野は頷いた。

「そうだ。これが、酸素戦争の中の“呼吸の証明”だ。」


(第三章 Part5に続く)

酸素だけで争いが起きるなど、普段では考える事すらない。しかし、あるべきものが無くなる事実を突きつけられれば、人間の本質が見えてくる。

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