表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呼吸の終焉(End of Breath)  作者: 遠藤 世羅須
13/15

呼吸の終焉 第三章 酸素戦争(Part 3) 連番⑫

いよいよ世界が酸素低下に気付き始めるが、”術”を持たない人々がどのように為すべきかの答えが無い。ジャーナリストの白石が街の様子をリポートする。


 ♢ 白石--風の消えた街


白石麻里は、

息を吸い込み、すぐに胸が重くなる感覚に顔をしかめた。

鼻を突いたのは奇妙な 金属の匂い だった。

乾いた鉄板をこすったような、

あるいは切り傷を舐めたときのような、 血の匂いに似た刺激。

(……また、この匂い)

白石は身震いした。

この匂いは――世界が“壊れ始めた”最初の日にも

確かに漂っていたものだ。

化学的には説明がつかないほど淡いのに、

記憶には強烈にひっかかる。

(また……酸素が減ってる)

挿絵(By みてみん)


酸素濃度は 17%台へ。

人の身体は14%を切ると思考力を失い始めるが、

17%でも十分に危険だった。


白石は、オフィスの曇った採光ガラスに手を触れた。

外の空は、また一段と色を失っていた。

昼のはずなのに、影がどこにも落ちない。

光が、空気の中で溺れているようだった。

編集部のモニターの上には、世界地図を模したニュースパネルが常に点滅している。

日本時間の午後、そこにはいつものように「遠い火事」がいくつも並んでいた。

中東の乾いた国境線では、

水源と古い油田をめぐる小競り合いが、もう何年も続いている。

極北の海では、新しく開いた航路と海底資源をめぐって、

砕氷艦と無人潜航艇がにらみ合っている。

洪水に沈んだ沿岸からは、何十万という人々が内陸へ押し寄せ、

難民キャンプでは「冷却装置」と「飲料水」をめぐる暴動が

月に一度の行事みたいに報じられていた。


画面の隅には、いつからか見慣れた言葉が並ぶ。

——資源紛争。気候難民。テロ。

「空が少し薄い」なんて話題は、その見出しの列の中で、いつも埋もれてしまう。

酸素濃度がわずかに下がっている、と指摘する海洋学者や大気研究者の声も、

白石にとっては当初、数ある「危機のひとつ」に過ぎなかった。

一部の沿岸では、夏になると“デッドゾーン”と呼ばれる、

海の底が息をしていない海域が急速に広がっているという。

けれど、そのニュースも翌日には、

どこかの国境でまた爆発があったという速報に押し流されてしまう。

「争いの理由なんて、いつも足りないものがある、ってそれだけだ」

ベテラン記者が、コーヒーをすすりながらぼそりとつぶやいたのを、

白石は思い出す。

以前はそれが、石油であり、水であり、土地だった。


そして今

彼女の机の上には、「息苦しさを訴える人が増えている」

という国内の小さな取材メモが積み上がっている。

足りなくなりかけているものの名前を、まだ誰もはっきりとは呼んでいないだけだ。

そう気づくまでに、世界はもう、

ずいぶんと長いあいだ息を詰め続けていたのかもしれない。

遠くで、酸素警報の短い電子音が鳴った。

耳慣れた音になりつつあるが、それでも胸の奥がざわつく。

(……また濃度が落ちてる。

天野君、こんな世界を見たら、なんて言うだろう)

思わず口元が緩んだ。


そんな情景でも、天野玲司の声は鮮やかに思い出せる。

「空気はね、人が思っているより“弱い”んです。

 でも、弱いからこそ守れるんですよ」

新任だった頃、資料の整理に追われていた自分に、

久しぶりに電話をした天野が笑いながら言った言葉だ。

その笑い声まで、今も耳の奥に残っている。

(天野君……どこで何をしているのかな?)

書類の整理台に置かれた、

研究者から預かった研究資料のUSBメモリーが目に入った。

触れると、ひんやりと冷たかった。


白石は小さく息をついた。

薄くて重い空気が肺に沈む。

息は入るのに、奥まで届かない。

(天野君はいつも言っていた。

 “空気が変わるとき、その理由を探るのが研究者の責務だ”って……

 いま世界がこんなに変わっているのに、私は……何もできてない)

胸の奥が痛んだ。

それは罪悪感に似ていて、しかし罪ではなく、ただ“想い”に近かった。

白石は手帳を開いた。

何度も読んだページの端が少し丸まっていた。

(……こういうときこそ、書くべきなんだろうけど。

 息が詰まる世界のこと。

 人々が静かに怯え始めていること。

 そして、その世界を最初に警告したのがあの人だったことも)

胸の奥がきゅっと痛んだ。

それは後悔か、不安か、あるいはもっと別の感情か。

天野から最後に届いた取材拒否メール。

「あとは現場の人間の仕事です」と短く返されたその文面が、

今になって刺さる。

(先生……本当は、全部わかっていたんじゃないの?

 この世界がこうなることを。

 でも、それを私に言わせようとしたの?

 “呼吸を追う者”の責務だって……そう言ったのに)


その瞬間、窓の外で風がふと止まった。

静寂がひとつ、深く落ちる。

白石は反射的に息を止めた。

そして、ゆっくりと吸い込んだ。

空気が薄い。

本当に薄い。

胸いっぱいに吸っても、頭の奥が白くなる。

空気が薄い日の悪夢みたいだった。

自分の呼吸音だけが、微かに耳の中で鳴った。

――その見えない揺らぎの向こうで、

天野玲司もまた、どこかで同じ空気を吸っている気がした。


     ♢


白石の周囲で、

通勤者たちは誰もが歩幅を小さくし、 階段でも息を切らしている。

視界の端では、

ベビーカーの母親がしゃがみ込み、子どもの頬を必死に叩いていた。

「息、して……お願い……!」

だが空気は重い。

呼吸は浅く、 声は弱く、人々の表情から“速度”が消えていく。

都市が死ぬのは、

物理的な破壊が起きたときではなく――

空気の流れが失われたとき なのだと

白石は悟った。


歩道橋の欄干にもたれながら、白石はふと昔の取材を思い出した。

七年前、地方の土砂崩れの現場。

カメラの向こうで救助を待つ男が、白石に向かって一度だけ手を伸ばした。

あのとき、白石は撮った。

助けるよりも、記録することを選んだ。

「報道の使命だ」と自分に言い聞かせながら。

だが結局、男は翌朝、冷たい土砂の下から見つかった。

以来、白石は“どの瞬間を切り取るべきか”を決めるたびに、

胸の奥であの伸ばされた手が沈んだまま揺れている。

挿絵(By みてみん)


今日の街の異変も、

助けるべきなのか、伝えるべきなのか、白石はまだ答えを持っていない。

だが――

“誰かが見ていた”という証拠だけは、

世界が忘れても残るはずだ。

白石はカメラを握り直した。

シャッターに触れた指先が、少しだけ震えた。


空気は“薄い”というより、“重い”という方が近い。

肺が空気を押し戻そうとして、呼吸は浅くなる。

風が吹かないせいで、空気の層が地面に張りついているようだった。

街路樹の葉は微動だにしない。

葉の裏についた埃が落ちず、

空の濁った光がそのまま葉に刺さって停滞している。

ビル風でさえも生まれない。

高層ビル間にあるはずの風の筋は、

黒い柱が大気の流れを奪ったときから完全に消えていた。

(本当に……風が死んだみたい)


白石は薄い息を吐いた。

吐き出した白い呼気が地面へ落ちるように沈んで消えた。

そして白石は取材をした科学者の言葉を反芻していた。

「 都市の大気組成が変わり、酸素が減り、

 窒素比率が上がることで生じる微弱な電離作用。

 黒柱が大気に放つ光が、上空でイオン化を起こしている。」

科学者ではない白石でさえ、

“都市の上には、常に見えない“電離の雲”がかぶさっている”

“何かが空気の中で崩れ始めている”ことだけは理解できた。


東京は、ゆっくりと沈んでいた。

沈むといっても地面ではなく――

空気が沈んでいる。

酸素が軽い層から失われ、

重い窒素が大気に偏り始めた結果、

街の空気は地面へ向かって重たく落ちるように漂う。

白石は息を吸い込み、

胸の奥につかえるような痛みを覚えた。

風がない。

だから街は、呼吸ができない。

服の裾も揺れず、

街路樹の葉の裏に溜まった埃はそのまま微動だにしない。

白石は、遠くの記憶にある天野の「空気・風を動かす」理論を思い出していた。 

この“空気の停止”が、崩壊の始まりだった。

挿絵(By みてみん)


(第三話 Part4に続く)

白石の閉塞感が増してゆく。世界も同様。庶民に為す術があるのか?持てるものだけの世界となってゆくのか?

今回、白石の葛藤が出てきますが、私の父親が報道カメラマンだったので、このような思いは何処かで入れたかったので、白石に代弁してもらいました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ