呼吸の終焉 第三章 酸素戦争(Part 2) 連番⑪
いよいよ酸素濃度が低くなっている事が世界に知れ渡る。その時。人々はどのように考え、どのように動くのか?人類の英知が試される試練が待つ。
♢ 世界の断裂
最初に動いたのは北半球の先進国だった。
酸素生成技術の独占を狙って、ASUプラントと酸素供給網を軍事化した。
さらに人工光合成施設と藻類スフィアには部隊を常駐させ、
“呼吸そのものを国家資産”として囲い込んだ。
「酸素ドーム」──それが新たな国境となった。
外の世界では息ができない。
内側では、富裕層だけが透明な空気を吸って暮らす。
一方、火山帯が東アジアに次いで多い南半球では黒柱の数も一気に増え、
飢えと熱波が拡大していた。
海洋プランクトンが次々に死滅していた。
黒柱が風を止めたことで海流が止まり、
栄養が行き渡らず、光合成もできなくなったのだ。
死んだプランクトンは深海へ沈み、酸素を使い果たしながら分解され、
海底の嫌気細菌が暴走し始めた。
大量のメタンが海中に溢れ、風がないため一気に大気へ噴き上がる。
気温が40度を超えたあたりから、
街はゆっくりと壊れ始めた。
風が吹かない。
ただ熱だけが地面に貼りつき、
空気が透明な板に変わったように揺らめいていた。
人々は最初、「猛暑日だ」と笑っていた。
しかし笑いはすぐに消えた。
アスファルトが白く光り、靴底がじりっと音を立てて溶け始めた。
信号機の赤が陽射しに溶け、
ビルのガラスが外から温められて膨張し、薄い破裂音を立てて落下した。
誰も走らなかった。
走れなかった。
空気を吸った瞬間、
肺の奥に針金を押し込まれたような痛みが走るからだ。
人々は口を押さえ、建物の影に逃げ込んだが──
そこも、もはや影ではなかった。
静寂の中、子どもが泣き叫んだ。
その声は熱で歪み、空気の中をまっすぐ届かない。
音がゆらゆらと揺れて、誰も正しい方向がわからなかった。
商店の前では数人が倒れていた。
店内に逃げ込んでも、冷蔵庫はすでに止まり、
内部の冷気は熱せられただけの空気に変わっていた。
誰かがつぶやいた。
「空気が……ない……」
その言葉は誰にも届かないまま、
街には“風のない熱の膜”がゆっくり広がっていった。
救急車のサイレンすら聞こえない。
音はあるのに、空気がそれを運ばない。
空は青いのに──
青さだけが、痛いほど静かだった。
南半球の気温は“坂を転げ落ちるように”上昇を始めた。
酸素を求めて、数千万の難民が北へ向かった。
国境線では銃声が響いた。
「彼らは敵じゃない、ただ息をしたいだけだ!」
──誰かが叫んだが、その声もすぐに掻き消えた。
やがてその熱は、海流と偏西風に乗って北半球にも波及する。
日本でも、季節のかたちが目に見えて歪み始めていた。
桜が散る前に真夏の熱波が押し寄せ、秋は一晩で駆け抜けていく。
天気予報からは、「平年並み」という言葉だけが静かに姿を消していた。
日本はまだ「死の湿度帯」からは外れていたが、
それでも夏の日中の外出は原則禁止になっていた。
気象庁は「屋外での活動は一日合計二時間まで」「高齢者と子どもは原則外出禁止」
とする通達を何度も更新している。
コンビニの前のアスファルトは、深夜でも白く湿った熱気を吐き出し続けていた。
♢
筑波研究都市。
天野と成瀬は、
酸素生成の根本的解決策を探っていた。
「本来、酸素は共有財産なんです」
研究員は、配線むき出しの装置を前にため息をついた。
「でも、もう私たちには資源も人手も足りない。
この小さな区画を維持するのが精一杯で……」
天野は、モニターに表示された大気組成の推移に目を疑った。
― O₂:17.0%
― N₂:81.1%
数字の上では窒素が“増えた”ように見える。
だが実際には、酸素だけが柱に吸われ、
その穴埋めとして窒素の比率が押し上げられただけだ。
さらにはオゾンの侵食。
「空気の密度が……変わってる?」
成瀬が呟いた。
「いや、密度じゃない。
“重さの感じ方”が変わっているんだ。
酸素が減ったぶん、窒素の割合だけが水ぶくれして見えている。
消えたぶんの酸素は……“呼吸できない酸素”に回っている。」
「月も青くなった。 上空のオゾン列が増えている。
月光が通るときに、赤い波長が普段より多く食われてるんだ。
だから、あんな不自然な青白さになっている。」
天野は指先で空気をつまむような仕草をした。
「酸素が奪われると、人間の肺は空気を“濃く”吸おうとする。
結果、窒素が過剰に入ってくる。
でも、窒素はエネルギーにならない。
体は呼吸してるのに、まるで溺れているみたいに――
脳が静かに沈んでいく」
·「それに、問題はO₂%じゃない。**酸素分圧(PO₂)**だ。
体が感じるのは“割合”じゃなくて“押し込む力”の方だ。」
·「肺胞のPO₂が落ちると、ヘモグロビンが酸素を掴めない。
吸っているのに、渡せない。」
·そのとき、外の風が一瞬だけ止んだ。
風鈴が揺れず、木の葉は空気の中で浮かんだまま。
次の瞬間、重く落ちた。
波のように押し寄せてくる倦怠感が、
天野の胸を締めつける。
「……これが、大気の“窒素化”か」
成瀬が眉を寄せる。
「火災も起きにくくなってる。
街のガスコンロが点火しないという報告がいくつも来てる」
「空が……低くなってる?」
成瀬が窓の外を見て呟いた。
雲が異様に低く、光が屈折している。
天野は、その現象の意味を理解した。
「酸素が減れば、対流が弱まる。
雲は持ち上がらず、風は形を失う。
つまり――
地球の“呼吸の高さ”が下がっているんだ」
その静かな説明が、
逆に誰よりも恐ろしく響いた。
「人工光合成も、藻類培養も……限界です。」
「そうか。」
成瀬は端末を叩きながら続けた。
「どこの国も技術を囲い込んでます。
研究データの共有すら禁止されました。」
天野は苦い顔をした。
「人類は同じ空気を吸ってきたのに、
今はそれを“領土”にしてしまった。」
彼は窓の外を見た。
霞む空。
遠くの街の煙突が、もう煙を出していない。
(第三部 Part3に続く)
空気があることで許される社会。ひとたびそこに亀裂が入ると音を立ててくずれてゆく脆さを孕んでいる。社会が崩れてゆく・・・




