呼吸の終焉 第三章 酸素戦争(Part 1)
酸素減少がもたらすもの。それは人々の繋がり、許す心、人間の尊厳に関わる部分。対峙できるのは、世界の構造を探求する心だけなのだろうか?
♢ 静かなる飢え
酸素濃度が18%を下回ったとき、
人類は初めて「息をすることが贅沢」だと知った。
呼吸は苦痛になり、
工場の火は消え、飛行機は飛ばなくなった。
炎が燃えるには酸素が足りず、調理すら困難になった。
政府は「軽度の環境異常」と発表したが、
都市ではすでに人々が倒れ始めていた。
酸素ボンベとマスクが金相場の代わりになり、
人々はそれを奪い合った。
ニュースキャスターは息を切らしながら言った。
「……私たちは、今、生きるために……吸って……奪って……います。」
通信が途絶える。
電波も、人の声も、途切れがちになった。
♢
それは、誰も気づかぬ場所で続いてきた、
何十億年にもわたる静かな演奏だった。
まだ地球が、炎と岩だけの若い星だった頃。
空は濁り、海は荒れ、生命どころか、息吹の影すらなかった。
そんな混沌の中で、
窒素はゆっくりと空へ溜まりはじめる。
火山の胸奥から、岩石の深層から、
湧き上がるように放たれた無数の分子たちが、
互いに結びつき、ほどけ、また結びつき、
気づけば空全体を包み込む「静けさ」の層になっていた。
――窒素 78%。
反応せず、騒がず、ただ世界を整えるために在る分子。
大気に安定を、炎に抑制を、海に穏やかさを与えた“見えない調律者”。
その一方で、
生命を告げる薄い光が、海の底から立ち上がる。
小さな細胞が光を喰らい、呼吸を覚え、
世界に初めて“酸素”という革命を解き放った。
酸素は荒々しい。
火を生み、生命を駆動し、時にすべてを灰に変える。
だが、荒々しさは世界に力を与えた。
やがて森が生まれ、動物が走り、羽ばたく者が空を掠めた。
――酸素 21%。
燃焼を許し、生命を動かし、
しかし決して増えすぎない、危うい均衡の数字。
78 と 21。
まるで互いを見つめ合うように、
二つの分子は、長い長い時の中で落ち着くべき場所を見つけた。
酸素が増えれば、森が燃える。
窒素が減れば、世界は騒ぎすぎる。
何度も均衡が揺らぎ、何度も世界が途切れかけた。
それでも、
大地の循環、生物の営み、海と空の脈動が、
ゆっくりと、しかし確実に調律を続けていき、
ついにたどり着いたのが――
“78:21”という、わずか1%の誤差も許されない奇跡の数字。
この比率がなければ、
森は燃え尽き、海は凍り、
動物も人も、そもそも存在することはなかった。
私たちはいま、
生命の歴史40億年が紡いだ“最良の空気”の中で息をしている。
ただ吸い、吐くだけの行為の背後に、
宇宙のどこにもない絶妙な調和が息づいている。
空を見上げるたびに思うべきだ。
――この青い世界は、偶然ではなく、
数えきれない闘争と調和の果てに辿りついた「奇跡の比率」の上にある、と。
しかし・・・、
♢ 海洋データの異常
筑波研究所。
天野は衛星データを見つめていた。
「海面の酸素濃度……急上昇してる!
でも──待って。これはおかしい。」
成瀬が叫ぶ。
天野が眉をひそめる。
「増えたのなら、酸素が戻ったのでは?」
首を横に振り、成瀬は指を震わせながら画面を示した。
「違います。
“呼吸に使える酸素(O₂)”じゃない。
酸素が別の形に組み替わってます……。」
天野の表情から血の気が引いた。
「……オゾン(O₃)だ。
海が、酸素を“吸える形”じゃなくしている……。」
成瀬は気づいた。
「つまり、
海が酸素を戻したんじゃなくて……
“呼吸できない酸素”に変えてしまったってこと……?」
「そうだ。ただし今増えているのは、地上近くの“毒ガスとしてのオゾン”だ。
一息ごとに、肺の内側から世界を焼いていく。」
部屋の空気が凍りついた。
O₂濃度17.0%。しかし、オゾンに侵食されている。
黒柱周辺では上空由来の励起粒子/放電が増え、
NOx生成や光化学の立ち上がりが早い。同じ日射でも“反応の火種”が多い。
オゾン呼吸障害が世界中で発生し、救急車のサイレンが街を覆った。
数時間後、病院はすべて満床。
呼吸補助装置が不足し、人々は酸素マスクを奪い合った。
そして──酸素は“通貨”になった。
♢ 科学者たちの沈黙
かつて国際研究機構は、地殻に含まれる酸化鉱物を溶融し、
電気分解で酸素を取り出す装置を開発していた。
MEOX《Melted Earth Oxygen Extraction(溶融地殻酸素抽出法)》炉は
地殻を模した人工の地獄だった。
1800度の溶融酸化物が、ゆっくりと赤い波を立てて揺れている。
その底に沈んだ固体電解セルは、酸素イオンだけを吸い上げ、
反対側の室内へと押し出していた。
生まれたばかりの酸素は、濾過水のように純粋すぎて、
皮膚に触れれば瞬時に水分を奪う。
だから人々は、厚い隔壁の向こうからそれを見つめるしかなかった。
だが、一基が一日かけて生み出せる酸素は、せいぜい数百キログラム。
人類八十億が一年に消費する約四百億トンの酸素だけを見ても、
それを支えるには、あまりに小さすぎた。
その装置は今も、一部の閉鎖都市や研究シェルターで細々と稼働している。
しかし電力も、装置の材料も、この土地には残っていない。
頼れるのは、壊れかけた自然だけだ。
世界の研究所は、
残されたわずかな資源と旧設備を総動員して、
酸素生成手法を急ごしらえで復旧しようとしていた。
人類の酸素供給は、やがて三つの“肺”に収束していった。
他にも装置は山ほどあった。だが、都市を生かし、社会を回し、戦争と医療の両方を支えるには、
量・連続運転・保守性が足りなかった。最後に残ったのは、確実に「呼吸を生む」仕組みだけだった。
第一の肺――深冷分離(ASU)。
国家が最初に守ったのはこれだった。
空気を圧縮し、冷凍機で液化し、蒸留で酸素を抜き取る。
原理は古い。だが古いから強い。部品は標準化され、保守手順もある。
なにより、空気がまだ“空気”である限り、ASUは止まらない。
酸素が薄くなるほど、同じ量のO₂を得るためにはより多くの空気を吸い込み、
より多くの電力を食う。それでも「作れる」ことが重要だった。
ASUは都市の地下に根を張る心臓になり、送気管とボンベ網は動脈になった。
そして必然的に、ASUは狙われた。
ここが止まれば病院が止まり、工場が止まり、治安が崩れる。
だから軍が守り、軍が守るから政治が絡み、政治が絡むから嘘が増えた。
酸素は、もう化学ではなく統治だった。
第二の肺――高温セラミック膜の“酸素ポンプ”。
酸素が減る世界でASUが抱える弱点はひとつだ。
ASUは“拾う”技術であって、“生む”技術ではない。
吸い込む空気が薄くなれば、拾える酸素も細っていく。
そこで台頭したのが、CO₂を割いて酸素を押し出す酸素ポンプだった。
高温炉の内部で、セラミック膜が酸素イオンだけを通し、反対側へ“押し出す”。
結果として得られるのは酸素。代償は、一酸化炭素という厄介な残り滓だ。
この装置は、発電所と同じ種類の戦略目標になった。
温度、電力、耐熱材、触媒、冷却水、そしてCOの回収・隔離
――それらを維持できる国だけが、呼吸を増やせた。
逆に言えば、維持できない国は、COに蝕まれた。
酸素ポンプは希望であり、同時に「高温の政治」でもあった。
炉を回す者は、炉の外の街にも命令できた。
なぜなら、炉の回転数がそのまま“明日の呼吸”を決めるからだ。
第三の肺――藻類スフィア型メガ・バイオリアクター。
機械が呼吸を作る一方で、生物は社会そのものを作り直した。
藻類スフィアは巨大な透明球体――光と水と栄養塩を制御し、藻の“増殖”を産業にした装置だ。
藻類は酸素を吐くだけではない。糖や脂質やタンパク質を作る。
つまり、酸素と同時に食料、飼料、医薬原料まで吐き出す。
崩壊した物流の代わりに、ドームはスフィアを持った。
スフィアを持つ都市は、生き延びた。
もちろん万能ではない。夜、藻は酸素を食う。汚染が入れば一晩で全滅する。
栄養塩が尽きれば止まる。だから人類は“昼”を延長した。
照明で光を足し、循環を最適化し、収穫で固定炭素を外へ持ち出すことで、正味の酸素を増やした。
スフィアは兵器にならなかった。だが、生活の兵站になった。
銃弾よりも、藻を守ることが街を守った。
――この三本柱の周囲に、他の装置は役割を持って散った。
PSA/VSA(吸着式)、水電解、膜分離、
化学式酸素発生(酸素キャンドル、KO₂、過酸化水素)など倉庫から引っ張り出すような
「その他」は全て局所対応でしかなかった。
人は「酸素」を貨幣にできると知った。
地下酸素庫は、文明の初期延命に効いた。
装置が整う前に、現物の酸素を引き上げられる地域は、崩壊の速度が遅かった。
だから奪われ、封鎖され、戦線の中心になった。
MOXIE拡大型は前線の肺、人工光合成パネル農場は地方の屋根に広がる希望。
だが主力ではない。主力に届かないからこそ、国家の隙間を埋め、地域の物語を生んだ。
結局、人類は“呼吸を作る技術”を選んだのではない。
呼吸を支配できる形――巨大で守れるもの、分散して増やせるもの、生活ごと立て直せるもの。
その三つの形に収束しただけだった。
どの技術も“生き延びる時間を少し伸ばす”ことはできても、
地球の大気全体を支えるには絶望的に不足していた。
どれも「限定的技術」でしかない。
研究者の一人が言った。
「さらにオゾンがまずい。
成層圏のオゾンとは別物だ。
地表のO₃は“汚染が光で焼かれてできる副産物”だよ。
車や工場、火災が吐くNOxと揮発性有機化合物(VOC)が、
日射で連鎖反応を起こしてO₃を生む。
普段なら風と対流がそれを薄め、植物や地面が吸い込んで消してくれる。
だが循環が止まると、反応物が都市の上に溜まり、混ざらず、逃げず、
夜になっても層の中に残る。
しかも植生が弱れば“吸い込んで壊す口”が減る。
結果として、地表で作られたオゾンが、地表に貼りついたまま濃くなる。」
「技術が足りないんじゃない……地球そのものが、
もう“息をする前提”を失いつつあるんだ。」
その言葉に、誰も反論できなかった。
(第三章 Part 2に続く)
オゾン(O₃)は通常「光化学スモッグ」の原因(主要成分)と認識されています。大気の高層にあるオゾンは紫外線をブロックしてくれるので、地球にはやさしい存在ですが、地表近くにあると人間には非常に有害です。色々なバランスが奇跡的に保たれているのが現在の地球ということになります。




