聖堂の夜
【エミリア視点】
王都の聖堂は、夜になると音が消える。
昼間は祈りと歓声で満ちていた場所も、今は蝋燭の燃える音だけが残っていた。
「女神様」
わたしは祭壇の前に跪いて、両手を胸の前で組む。
白い衣は寸分の乱れもなく、髪も整えられている。
”聖女”として相応しい姿であることを、わたし自身がよく分かっていた。
今日も奇跡が起きた。
病に伏していた子供は目を覚まし、衰弱していた兵は立ち上がった。
民衆は涙を流し、わたしの名を呼んだ。
ーー正しいことをした。
ーー救うべき人を救った。
そう、頭では理解している。
わたしは”聖女”なのだから。
それなのに。
(……どうして)
胸の奥が、ひどく静かだった。
達成感も、高揚も、安心もない。
ただ、何かが”整えられた”感覚だけが残っている。
「いえ」
わたしは小さく首を振る。
考える必要は無い。
迷いは聖女に相応しくない。
「これは、女神様の御心」
そう口にすると、不思議と心が落ち着いた。
確信に近い安堵が、すっと流れ込んでくる。
ーーそれでいい。
ーーあなたは正しい。
ーーそのまま進めばいい。
言葉ではない”感覚”が、背中を押す。
わたしはそれを、祝福だと思った。
(そう……わたしは、選ばれたのだから)
誰かを犠牲にしてでも、多くを救う。
迷いを捨てて、光になる。
それが聖女の役割だと、いつからか疑わなくなっていた。
ヒロインだから正しいのだと。
女神様はわたしを守ってくれる。
いえ、女神様だけじゃない。わたしを守ってくれる存在は他にもいる。
口に出せないけれども。
その存在は、女神様とは少し”温度”が違っている。
だから……
ふと、脳裏に一つの影がよぎる。
長い金髪。
鋭い視線。
いつも、どこかで自分を見下していた存在。
「前婚約者、ですか」
その名を口にすることはない。
思い出す必要も無い。
彼女は”過去”であり、自分は”今”なのだから。
今はわたしが”婚約者”でヒロイン。
そして彼女は悪役令嬢。
前婚約者でも問題ない。
どこかで果てるのだろうから。
もしかしたら、既に果てているのかもしれない。追放された彼女が戦うなんて、難しいのだから。
「わたしは、間違っていない」
そう呟いた”あと”、再びあの安堵が広がった。
まるで誰かが、丁寧に心を撫でてくれるように。
わたしを助けてくれた存在が、わたしを押してくれる。
婚約者になれたのも、そのおかげだから。
そのために頑張らないと。
「綺麗ね。この景色が今も見えるなんて」
聖堂の外では、夜風が吹いていた。
王都の空は澄み切っていて、星がよく見える。
景色を見ると、わたしはこの場にいてもいいって思える。
彼もわたしを選んだのだから。
わたしはまだ知らない。
ーーその星のどこかで、同じ夜を別の選択と共に過ごしている誰かがいることを。




