第二章∶黎明の香り
朝靄の中、紅茶館の煙突から、細い白い煙が上がる。
まだ陽が昇りきらない静寂の時間。
ヴィオレッタ・ド・ランベールはカウンターに立ち、
そっと新しい茶葉の香りを確かめていた。
――《黎明》
夜と朝のあわいを映す、最後の香り。
それは、彼女自身の物語の終わりと始まりを示す香りでもあった。
「新しいブレンドか。」
扉のベルが鳴り、入ってきたのはレオンだった。
宰相としての衣ではなく、薄手の外套姿。
久しぶりに見せる、穏やかな素顔。
「おはようございます、レオン様。」
「おはよう。……その香り、少し柑橘のようだな。」
「ええ。朝の始まりに似合う、目覚めの香りを探していましたの。」
ヴィオレッタはポットを傾け、湯気とともに微笑んだ。
「貴方も、疲れが溜まっているでしょう? まずは一杯。」
「……ありがとう。」
彼がカップを受け取り、唇をつける。
一瞬、彼の表情がほどける。
「……優しい味だ。」
「夜を越えた人にしか、わからない味ですわ。」
「……まるで私を見透かしているようだな。」
二人の間に静かな笑いが生まれる。
それはどこか、前より柔らかい距離だった。
そのとき、扉がもう一度鳴る。
朝の光を背に、現れたのは――アレクサンドル。
外交服ではなく、旅の衣。
肩には風を纏ったような自由の気配がある。
「またお邪魔してしまいましたね。」
「アレクサンドル様……!」
「いや、“アレク”でいいでしょう? 今日はただの旅人です。」
ヴィオレッタは思わず微笑んだ。
「……また、この香りに誘われて?」
「もちろん。あなたが“黎明”と名づけたと聞いて。」
「噂が早いですわね。」
アレクサンドルは軽く笑い、
そしてレオンの視線に気づくと、わずかに会釈した。
「宰相殿。お久しぶりです。」
「……ええ。あなたがこの国に来るのは、もはや外交ではないようだ。」
「そうですね。――今日は、心の挨拶に。」
静かに流れる紅茶の香りの中で、三人は卓を囲んだ。
それはまるで、長い戦いの後の和議のようでもあり、
そして、互いの“想い”を確かめる時間でもあった。
アレクサンドルが口を開く。
「あなたに再び求婚するつもりはありません。
でも、ひとつだけ伝えに来ました。」
「……ええ。」
「あなたの“香り外交”は、我が国を変えました。
貴族が権力ではなく、心で交わるという発想――
それを最初に体現したのは、あなたです。」
ヴィオレッタは穏やかに目を伏せた。
「……かつて、私は“悪役令嬢”と呼ばれました。
でも今は、それも悪くないと思っていますの。」
「なぜだ?」レオンが尋ねる。
「だって、悪役でなければ、
誰も“香りの裏にある真実”を見つめようとしなかったから。
誰かが間違い、誰かが赦す。
その繰り返しが、人を変えていくのですわ。」
二人の男は、しばし黙って彼女を見つめた。
まるで聖堂に立つ聖女を見るように。
やがてアレクサンドルが立ち上がる。
「では、私は行きます。
次に来るときは、この香りが“二国の朝”を満たしている頃でしょう。」
ヴィオレッタは頷き、
小瓶に詰めた《黎明》のサンプルを差し出した。
「国境を越えても、香りは風に溶けます。
――どうか、その風を信じて。」
アレクサンドルはそれを受け取り、
「ええ。あなたの想いごと、連れて行きます。」
と言い残し、去っていった。
残されたのは、ヴィオレッタとレオン。
静けさの中、紅茶の香りがまだ揺れている。
レオンがカップを置いた。
「……君が彼を選ばなくてよかったとは、言わない。
彼は立派な男だ。」
「ええ。わかっています。」
「でも……君が彼を選ばなかったことで、
私はこうして“隣に立つこと”を許された。」
ヴィオレッタは微笑み、
「宰相として?」と問う。
レオンはゆっくりと首を振る。
「――一人の男として、だ。」
その瞳はいつになく真剣で、
でも、どこか切ないほどに優しかった。
「君が国を選んでも、人を選んでも。
そのすべての中で、私は“君を見守る香り”でありたい。」
ヴィオレッタの胸に、静かな温かさが広がる。
彼の言葉は、恋というより祈りに近かった。
「……それなら、わたくしは“香りを淹れる人”であり続けます。
貴方が疲れた夜に、またこの場所で香りを届けられるように。」
レオンは微笑んだ。
「約束だ。」
二人はカップを重ね、
朝日が差し込む瞬間――《黎明》の香りが店中に満ちた。
――香りは記憶を越え、記憶は国を越える。
かつて断罪された令嬢は、今、世界を結ぶ架け橋となった。
そしてその傍らには、
宰相と、かつての隣国の王子――
三つの心が、静かに未来へと溶けていった。




