第一章∶香りと誓いの祝宴
王都の大広間に、百本の燭台が灯る。
黄金の光が壁を揺らし、絹のドレスが波のようにきらめいていた。
今宵は《アストレア=ロディア和平祝宴》。
二国の長き確執に終止符を打ち、
初めて「同じ香りの紅茶」が外交の場に供される――
その紅茶の名は《ヴィオレット・リユニオン》。
そして、その名を冠した香りを生み出したのは他ならぬ、
紅茶館の主――ヴィオレッタ・ド・ランベールである。
「……本当に、私の紅茶を……この場で?」
ヴィオレッタは大広間の端で、少し緊張したようにティーポットを抱えていた。
式典用の衣装は淡い藤色。
香り立つように優美で、王妃たちさえ目を奪われる。
「緊張しているのか?」
隣から声がした。振り向けば、そこにはレオン。
宰相として、だがその瞳は今日は少し違う――
どこか、ただの“男”の眼差しをしていた。
「貴方が隣にいてくださるなら……大丈夫ですわ。」
「……そう言われると、緊張するのはこちらのほうだな。」
二人の間に、かすかな微笑みが交わる。
その瞬間――扉が開いた。
金糸の軍装、銀の勲章。
堂々とした足取りで、アレクサンドル王子が入場する。
その背に、隣国の王家の旗が翻った。
「ヴィオレッタ嬢。」
「……アレクサンドル様。」
「この香りを、国の絆の象徴として献上できること。
心から光栄に思います。」
ヴィオレッタは深く礼をした。
「光栄なのは、私のほうです。
香りが平和を包みますように――」
アレクサンドルは微笑み、少し声を落とした。
「……あなたの香りが、私の心を包んだように。」
その囁きに、レオンの眉がわずかに動いた。
楽団が奏でる旋律に合わせ、各国の要人がグラスを掲げる。
やがてヴィオレッタが前へ進み、
両国の王に紅茶を注いだ瞬間――
藤と柑橘が混ざるような香りが、会場全体に広がった。
ざわめき。
そして、静寂。
「……素晴らしい。」
隣国王が息を漏らす。
「まるで、戦の痛みを忘れさせる香りだ。」
「これがヴィオレット・リユニオンか。」
ロディア国王も頷いた。
ヴィオレッタはほっと胸を撫で下ろす。
その時だった――
アレクサンドルが立ち上がり、ゆっくりと前に出た。
会場が静まる。
「この香りを広めたのは、
紅茶館の主、ヴィオレッタ・ド・ランベール嬢。
彼女はかつて、己の過ちにより断罪された令嬢――
だが、今宵、彼女は“赦し”と“誇り”の象徴としてここに立つ。」
ざわつく会場。
ヴィオレッタは驚き、アレクサンドルを見上げた。
「そして私は――」
彼はひと息置き、視線を彼女に向けた。
「彼女に救われたひとりの男として、ここで誓う。」
―――
「ヴィオレッタ・ド・ランベール嬢。
この国の、そして私の未来を共に歩んでほしい。
あなたを、私の王妃として迎えたい。」
一瞬、音が消えた。
会場の誰もが息を呑み、視線をヴィオレッタへ。
アレクサンドルの瞳は真っ直ぐだった。
それは政治ではなく、心そのものの告白。
レオンの手が、無意識に握りしめられる。
(……彼は、ここでそれを言うのか。)
ヴィオレッタは胸の奥で何かが弾けるように震えた。
(わたくしは……何を望んでいるの?)
紅茶の香りが、遠く霞んでいく。
「……アレクサンドル様。」
静かに、けれど確かに声を出す。
「お答えは――今は、できません。」
「……理由を、伺っても?」
「私はこの紅茶館の主。
国と人を繋ぐ“場所”でありたい。
どちらの国にも属さない存在であることが、私の役目です。」
アレクサンドルは一瞬、息を呑み――
そして穏やかに笑った。
「……あなたらしい。
それならば、私はあなたの選んだ道を守ると誓います。」
会場の空気が、少しだけ安堵に変わる。
だがその片隅で、
レオンはグラスを傾けながら、ひとり目を伏せていた。
(……そんなに強くなくてもいいのに。)
夜風に藤の香りが揺れていた。
人の波が去った後の庭で、
ヴィオレッタはひとり、満月を見上げていた。
「……断るのが、正しいとは思えませんでした。」
「それでも、君は正しい選択をした。」
背後から声。振り返ると、レオンが立っていた。
「レオン様……」
「君が誰にも縛られずに笑っていられること。
それが、私の仕事だから。」
「でも……宰相としてではなく、貴方自身は?」
レオンは言葉を詰まらせ、
夜空を見上げたまま、微かに笑った。
「……その答えは、まだ“香りの中”にあるかもしれないな。」
ヴィオレッタは一歩近づき、
そっと彼の袖に触れた。
「では、探しに行きましょう。
紅茶館の新しい香りを――一緒に。」
レオンは短く息を吐き、
その目に、初めて素直な光が宿った。
「……ああ。君となら、どんな香りでも見つけられる気がする。」
――そして、新しい香りが生まれた。
名は《黎明》――
夜明けの光とともに、三人の物語はまだ続いていく。




