第十一章:真実の香り
夕暮れの紅茶館。
普段なら穏やかな香りが漂うその空間に、
今日はどこか緊張の気配が漂っていた。
ヴィオレッタは店の奥で静かにティーカップを磨いていた。
(……今日、アレクサンドル様が来る。)
それは外交の打ち合わせでも、紅茶を楽しむためでもない。
――隣国からの“正式な使者”として。
そして同時に、宰相レオンからも知らせがあった。
「本日、アレクサンドル殿に関して公式発表がある」と。
(……何かが終わる。そんな予感がするのです。)
扉のベルが鳴る。
外の光の中に現れたのは、いつもと違う装いのアレクサンドル。
深紅の軍装に、胸元には隣国の紋章――王家の象徴。
「……その服装は……」
ヴィオレッタが息を呑む。
アレクサンドルは静かに微笑んだ。
「ごまかし続けるのも、もう限界のようですね。」
彼の背後から、数名の衛兵が姿を現す。
だがその目は敵意ではなく、敬意を帯びていた。
「私はアレクサンドル=リオネール・アストレア。
隣国《アストレア王国》の第三王子です。」
ヴィオレッタは手にしていたティーカップを落としそうになった。
「……王子、ですの……?」
「ええ。
あなたの国との和平を探るため、偽りの身分で滞在していました。
……しかし、任務はすでに意味を失いました。」
「意味を……?」
「ええ。
この紅茶館で、私は“任務ではない想い”を見つけたからです。」
扉が再び開き、冷たい風が吹き込む。
レオンが現れた。
宰相の制服のまま、険しい表情で。
「……やはり、あなたが本物の“王子”でしたか。」
「おや、宰相閣下。お見通しでしたね。」
「最初から怪しかった。
だが、決定的な証拠が出るまでは、あなたを“外交官”として扱うしかなかった。」
レオンは一歩前に出る。
「そして今、あなたは自国の王子として、我が国の令嬢を――いや、
一度断罪された彼女を再び政治の渦に巻き込もうとしている。」
「違います。」
アレクサンドルの声がはっきりと響いた。
「私は彼女を“国の象徴”ではなく、“一人の女性”として求めた。」
「……綺麗ごとだな。」
レオンが低く呟く。
「あなたの国は和平を望んでいる。
そして彼女はその鍵――それが真実ではないのか?」
「もしそうなら、私は王子の冠を捨ててでも彼女を選ぶ。」
その言葉に、紅茶館の空気が震えた。
沈黙。
ふたりの男の視線が、ヴィオレッタに向けられる。
まるでこの紅茶館そのものが裁判の場になったかのようだった。
ヴィオレッタは、震える手をそっと胸の前で組む。
(……どちらも、本気。どちらも正しい。
けれど、わたくしが選ぶのは“国”でも“立場”でもない。)
彼女はゆっくりと立ち上がり、二人の間に歩み出た。
そして――微笑んだ。
「お二人とも、ありがとうございます。
私を“誰かのための存在”ではなく、“一人の人”として見てくださったこと。」
「ヴィオレッタ……」レオンが息を呑む。
アレクサンドルもわずかに目を細めた。
「ですが、今はどちらの手も取れません。
私はこの紅茶館を――“ふたりの国”の架け橋にしたいのです。」
「紅茶館を……架け橋に?」
「ええ。
ここでは身分も国も関係なく、同じ香りを味わえる。
紅茶の香りに国境はありませんわ。」
アレクサンドルは静かに笑う。
「……なるほど。あなたらしい。」
レオンは目を伏せ、苦笑した。
「あなたは本当に、私たちを超えていく。」
アレクサンドルは、懐から小さな瓶を取り出した。
“藤の香り”――もう一度、彼女に差し出す。
「これを。あなたの紅茶館の新しい香りとして使ってほしい。
……もう記憶を曇らせる効果はありません。
ただの、純粋な香りです。」
ヴィオレッタは受け取り、そっと微笑んだ。
「香りに罪はありませんものね。」
レオンが一歩近づき、静かに言う。
「この館の安全は私が保証します。
あなたの望む“平和の場所”を、国として認めましょう。」
アレクサンドルは深く頷く。
「では、次にここを訪れるときは、
一人の王子ではなく、ただの“客”として。」
夕日が窓を染める。
三人の影が床に重なり、ゆっくりと離れていく。
ヴィオレッタはカウンターに立ち、ティーポットを温めながら微笑んだ。
――紅茶の香りは、もう誰にも支配されない。
それは、罪を赦し、心をつなぐ真実の香り。――紅茶の香りは、もう誰にも支配されない。
それは、罪を赦し、心をつなぐ真実の香り。




