第十章:紅茶館の香りが変わるとき
窓辺に置かれた“藤の香り”の瓶。
昨日アレクサンドルにもらったものだ。
光が反射して、淡い紫の輝きが床に揺れている。
(……昨日のレオン様の言葉、まだ胸に残ってるわ。)
「香りで惑わされるような男には渡さない。」
思い出すたび、胸の奥が少し熱くなる。
あのとき、彼の瞳に宿っていたのは冷静さでも義務でもなかった。
――まるで、恋そのもののような熱。
カラン……。
扉の鈴が鳴る。
まだ開店前なのに、と顔を上げると――そこにいたのはレオンだった。
「……お早いですのね、宰相閣下。」
「眠れなかったもので。」
彼は少し苦笑して言った。
目の下にうっすらと疲れが見える。
“嫉妬に沈んだ夜”を過ごしたのは、どうやら本当のようだった。
ヴィオレッタはティーポットを温めながら、静かに言った。
「昨日は……少し、驚きましたわ。」
「私もです。」
レオンは軽く息をつく。
「自分があれほど取り乱すとは思っていませんでした。
あなたに……怒鳴るような真似をしたことを、後悔しています。」
「怒鳴られたとは思っていませんわ。
……ただ、胸の内を見せていただけたのは、嬉しかったですの。」
その一言に、レオンの肩がわずかに震える。
だが、彼は目を逸らさずに言った。
「……あなたは、あの男を信じるのですか?」
ヴィオレッタは少し考え、窓の外に視線を向けた。
「ええ。……信じたいと思っています。」
「それは、“香り”のせいではなく?」
レオンの声が少し強くなる。
ヴィオレッタは振り返り、まっすぐに彼を見る。
「違いますわ。
彼の言葉を信じたいと思うのは、私自身の意思です。
誰かの呪いでも、誰かの策でもなく――自分の心で。」
レオンは一瞬、息を止めた。
(……ああ、この人は本当に強い。
誰に罪を着せられても、誰かの下に立たされても、
最後は“自分”で立つ。)
ヴィオレッタは紅茶を注ぎながら、静かに続けた。
「でも、だからこそ――わたくし、あなたにも同じように正直でいたいのです。」
「……正直に?」
「はい。
レオン様、わたくし……あなたの傍にいると、怖くなるのです。」
「……怖い?」
「ええ。どんな感情でも理性で包んでしまうあなたが、
昨日だけは“男の人の顔”をしていたから。
それが、嬉しくて、怖くて。」
レオンは何も言えなかった。
ただ、胸の奥で何かが溶けていくのを感じていた。
紅茶の香りが満ちる中、ヴィオレッタは言った。
「だから、今日決めましたの。
私は、どちらかを“選ぶ”のではなく、
まず自分で“歩く”ことを選びます。」
レオンの目が少し見開かれる。
「紅茶館を、外交使節の交渉場として開放します。
……隣国とも、あなたの国とも、私の場で語ってほしいのです。」
「――それは……」
「誰かの妻になる前に、一人の人として、この国にできることをしたい。
アレクサンドル様にも、レオン様にも、感謝しているからこそ。」
彼女は微笑んだ。
その笑顔には、迷いがなかった。
断罪された令嬢ではなく、誇り高い一人の女性の顔。
レオンは深く息をつく。
「……あなたは本当に、いつも私の先を行く。」
「そんなことありませんわ。
……ただ、紅茶を少し冷ます時間が長いだけですの。」
彼は笑い、少しだけ手を伸ばした。
しかし、その手はカップの上で止まる。
「――あなたを守る理由が、少し変わりました。」
「え?」
「義務でも、国でもない。
あなたが選んだ“道”を守りたい。
それだけです。」
ヴィオレッタはカップを見つめ、そっと微笑んだ。
「……その言葉、香りよりも強く残りそうですわ。」
――朝の光の中で、ヴィオレッタは初めて“自由な香り”を感じた。それは恋とも決意とも呼べぬ、ただ一人の女性の息吹だった。




