第九章:宰相閣下、紅茶の温度を誤る
王都の午後、薄曇り。
紅茶館の扉が開くと、外の冷たい風と一緒に、ひときわ明るい声が飛び込んだ。
「ヴィオレッタ嬢、これを受け取ってください。隣国の香料師が作った新しいブレンドです。あなたに似た香りだと、すぐに思いました。」
差し出したのはアレクサンドル。
漆黒の髪に柔らかな笑み。誰もが息を呑むほどの貴公子だ。
彼が差し出した小瓶には、淡い藤色のリボンが結ばれていた。
ヴィオレッタは頬を染めて微笑む。
「まぁ……素敵。ありがとうございます。とても良い香りですわ。」
その瞬間――
扉の外から、重く控えめな足音が響いた。
「……賑やかですね。」
低く落ち着いた声。
レオンが姿を現した。
いつもの冷静な宰相の顔――のはずだった。
だが、その瞳の奥には、明らかに温度の違う何かが宿っていた。
アレクサンドルは軽く礼を取る。
「宰相閣下、ご機嫌麗しゅう。たまたま通りかかったもので。」
「たまたま、ですか。偶然が多いようですね。」
レオンは一歩、二歩と進み、カウンターに手を置いた。
そして静かに言う。
「……それ、どんな香りなんです?」
「“藤の契り”という名の香りです。
人と人を惹き合わせる効能があるとか。」
アレクサンドルは意味ありげに微笑んだ。
「なるほど。外交用には危険な香りだ。」
レオンの声がわずかに低くなる。
その笑顔の下に、いつもの理性とは違う“刺”があった。
(……何、この空気。紅茶館の中が急に狭くなったような……)
ヴィオレッタは慌ててティーポットを手に取る。
「お二人とも、どうぞお掛けになってくださいませ。
すぐに新しい茶葉を――」
「いや、私は結構です。」
レオンが静かに制した。
「今、十分に熱いものを感じていますので。」
「……熱い、ですか?」
「ええ。紅茶の話ですよ。」
(……うそ。絶対、紅茶の話じゃありませんわね?)
ヴィオレッタは思わず目を逸らす。
アレクサンドルが立ち上がる。
「では、私はこれで。ヴィオレッタ嬢、また改めて――」
レオンがわずかに声を張った。
「待ちなさい。」
アレクサンドルの足が止まる。
「……何か?」
「あなたがこの国で何をしているのか、私は常に把握しているつもりです。
外交官が“偶然”を重ねるのは、不自然だと思いませんか?」
アレクサンドルは微笑を崩さずに返す。
「では、閣下。私は“偶然”ではなく、“必然”でここに来ているのかもしれませんね。」
そして、軽く会釈して去っていった。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
レオンはしばらく無言で立っていた。
ヴィオレッタは、何か言おうとして言葉を失う。
そして、彼はぽつりと呟いた。
「……あの男、あなたに似合わない。」
「……レオン様、それは――」
「彼は、あなたの穏やかさを壊す。
あなたが笑っていられる場所を、政治の駆け引きで染めようとしている。」
「……宰相閣下、それはお仕事の判断ですの? それとも――」
「人としての判断だ。」
その言葉に、空気が一瞬止まった。
レオンの瞳がまっすぐに彼女を射抜く。
普段なら決して見せない、剥き出しの感情。
「……ヴィオレッタ。
あなたが誰を選ぶにせよ、
その手を“香り”で惑わされるような男には渡さない。」
ヴィオレッタは、心臓の音が紅茶館に響くほどに感じた。
そして――少しだけ笑った。
「……宰相閣下。
嫉妬で紅茶が冷めてしまいましたわ。」
レオンは息を詰まらせ、わずかに頬を染めた。
「……どうやら温度管理を誤ったようですね。」
二人の間に、静かな笑いが戻る。
だがその奥に潜む熱は、
紅茶よりもずっと深く、甘く、危うかった。
――その日、紅茶館の香りは藤ではなく、嫉妬の香に満ちていた。
けれどヴィオレッタは、不思議と嫌ではなかった。




