第八章:翌朝の紅茶館 ―焦がれる香り―
朝の紅茶館は、いつもより静かだった。
昨日の求婚騒動のせいで、まだ胸の奥がざわついている。
アレクサンドルは外交の報告のため城へ戻り、今日は来ないという。
――つまり、今この店にいるのは、ヴィオレッタとレオンの二人だけ。
カウンターの奥で、ヴィオレッタはいつものようにティーポットを温めていた。
だが、手元がほんの少し震えている。
紅茶の香りはいつもより強く立ち上り、心を落ち着けようとしているかのようだった。
「……おはようございます、ヴィオレッタ嬢。」
扉の音と共に、いつもの低い声が響いた。
レオンは普段通りの笑みを浮かべている――ように見えた。
だが、彼の指先はわずかに袖口を弄っている。
(あの宰相殿が落ち着かないとは、珍しいことですわね……)
「おはようございます、宰相閣下。
昨夜は……賑やかでしたわね。」
ヴィオレッタが紅茶を注ぎながらそう言うと、
レオンは小さく咳払いして目をそらした。
「……まったく、あの外交官は空気というものを知らない。
よりによって人前で求婚とは……」
「まぁ、情熱的で素敵ではありませんか?」
「……あなたがそれを言うと、妙に心臓に悪い。」
レオンの声がわずかに低くなり、ヴィオレッタは思わず笑った。
その笑顔に、レオンの肩の力が少し抜ける。
「……あの求婚、どう受け取ったのですか?」
突然の問いに、ヴィオレッタの手が止まった。
ポットから流れる紅茶の滴が、カップの縁で音を立てる。
「……正直に言えば、心が少し揺れましたわ。
でも、あの方の言葉をそのまま受け取るには――まだ、分からないことが多すぎますの。」
レオンは黙って彼女を見つめていた。
その瞳の奥に、言葉にできない焦りが灯る。
(分からないこと、か。
あの男の正体を知ったとき、あなたはどう思うだろう?)
彼は内心で息を飲む。アレクサンドルの行動を調査中の宰相としても、
一人の男としても、心が乱れていた。
ヴィオレッタはそっとカップを差し出した。
「宰相閣下、どうぞ。……少し濃い目に淹れましたの。」
レオンは受け取りながら微笑む。
「まるで今の私の気持ちのようだ。」
「え?」
「……苦くて、熱くて、冷ませない。」
ヴィオレッタの頬が一瞬で赤くなった。
「……あ、あの、それはつまり、紅茶の話ですよね?」
「もちろん、紅茶の話です。」
レオンは軽く笑いながらも、視線だけは外さなかった。
その穏やかな瞳に、いつもと違う熱が宿っている。
ヴィオレッタは胸の鼓動を抑えるように、そっと手を当てた。
(……ずるいですわ、レオン様。そんな顔をなさるなんて。)
レオンは立ち上がり、帽子を手に取る。
「……アレクサンドル殿の件は、私に任せてください。
あなたはこの紅茶館を守ってください。」
「でも、私にも責任がありますわ。あの方を信じようとしたのは、わたくしですもの。」
「信じることに罪はありません。」
レオンの声が柔らかく響く。
「むしろ、誰かを信じられるあなたを……私は、羨ましいと思う。」
ヴィオレッタは何も言えなかった。
ただ、彼の背中が扉の向こうへ消えるまで、じっと見送っていた。
紅茶の香りだけが、二人の間に残っている。
それは、答えを待つように、ほのかに甘く漂っていた。
――その日の紅茶は、少し苦かったけれど、
ヴィオレッタは不思議と、もう一杯飲みたいと思った。




