鏡の向こうの般若
「ふ〜〜、極楽極楽〜。先生〜、シャンプー借りるね〜!」
浴室から元気な紫の声が響く。居間でノートパソコンを叩きながら、雅也は苦々しい顔で煙草をくゆらせた。
「……あいつ、もう完全にうちの風呂や思っとるな」
机の上には散らかったメモ、冷めきったコーヒー、締め切りまであと二日の赤字メモ。作家・奥川雅也の夜は、いつも紫に乱される。
「先生、今日の原稿どれくらい進んだ?」
風呂場から声が飛んでくる。
「ぼちぼちや」
「その回答、進んでないパターンでしょ」
「うるさいわ。風呂上がってから言え」
軽口を交わした、その直後――
「きゃあああああっ!!」
甲高い悲鳴が浴室を引き裂いた。雅也の手から煙草が落ちる。立ち上がる前に、すでに足が動いていた。
「おい、紫!? なにしとんねん!」
洗面所へ駆け込むと、湯気だけが残り、紫の姿はどこにもない。
ふと鏡に目をやる。これだけ湯気があるのに、鏡はまったく曇っていない。
「……なんや、これ」
鏡はぼんやりと自分の姿を映している。だが、よく見ると――鏡の中の"自分"が、わずかに遅れて動いた。
いや、動いたのではない。笑っていた。
雅也が笑っていないのに。
背筋を冷たいものが走る。
「……ほぉ。そういうことか。面倒やけど、行くしかあらへんな」
鏡に手を伸ばすと、表面がゆらりと波打ち、指先を吸い込んだ。冷たい。水でも氷でもない、もっと深く、底の見えない冷たさ。
「入れるんか……ほんま、厄介なことばっかやな」
ぼやきながら、雅也は鏡の中へ踏み込んだ。
雪が降っていた。
真っ白な庭園。黒塗りの塀、松の木、灯籠。吐く息が白く揺れる。さっきまで初夏だったはずなのに、ここは真冬だった。
「鏡の中っちゅうより、時代劇のセットやな……」
屋敷の戸がギィと開く。誰もいないのに、まるで"おいで"と言われたようだった。
「歓迎してくれとるわけやないやろな」
皮肉を呟き、廊下へ足を踏み入れる。異様に長い廊下。壁には古びた掛け軸が等間隔に掛かっていた。
どれも同じ女の肖像画――若い娘。笑ってはいない。虚ろで、どこか悲しげだ。
奥の広間から、かすかに泣き声が聞こえる。
雅也は足音を殺して近づき、襖をそっと開けた。
畳の上に、紫が倒れていた。
その傍らに、薙刀を持つ般若の面の女が立っている。白い打掛に、雪のような肌。静かに、しかし異様な気配を放っていた。
「やれやれ、まためんどくさいのが出てきたな」
女がゆっくりと顔を向ける。面の目の穴から覗くのは――人ではない何か。
「……その娘は、私の娘に似ている。だから、この世界で一緒に暮らす」
くぐもった低い声。だが、その奥に狂おしいほどの執着が滲む。
「おもろいこと言うのう。人ん家の風呂場に侵入して、人さらって言うセリフちゃうやろ」
「黙って帰るなら、命は助けてやる」
「寝言は寝て言えや。この状況で"はいそうですか"って帰るような男に見えるか、俺が」
女の肩が震えた。怒りか、それとも悲しみか。
「この子は本当に娘に似ている。おそらく生まれ変わりだ。いいえ、きっとそう……!」
「頭が沸いとるな。会話が成立せん。時間が惜しい――さっさと来いや」
女が薙刀を構える。空気が凍りつく。雅也も拳を構え、静かに息を吐いた。
「……消えろ」
薙刀が一閃。雅也は間一髪で避ける。横薙ぎ、袈裟懸け、足払い。攻撃は舞のように美しく、殺意に満ちていた。
雅也は後退しながらも、懐から煙草を指で弾く。火のついた煙が軌跡を描き、女の面を照らす。
「ええ動きやのう。間合いも遠いし、面倒やな」
「お前は……私の幸せを壊す者! 死ね!」
「そらどうかな」
雅也は拳を口元に持ち上げ、息を吹き込む。次の瞬間、拳から炎が噴き出した。火炎放射のような炎が一直線に女を包む。
「先生っ!」
紫が目を覚まし、女の背後から中段蹴りを放つ。女の身体がくの字に折れ、畳を滑るように吹き飛ぶ。
「なにをするの、香月! 母に向かって――!」
「誰? 私は紫だよ。私のお母さんはそんなことしない!」
女の動きが止まる。面の奥の瞳が、揺れた。
「お前にしてはええ仕事や、紫!」
「ここどこ!? ていうかこいつ誰!?」
「なんも分からんで蹴とばしたんかい。お前も大概やな」
雅也は距離を詰め、懐から拳銃を抜く。銃口を、うなだれた女に向けた。
「悪いけど諦めてくれ。あんたの事情は知らんけど、こいつはあんたの娘ちゃう」
「お前さえいなければ……!」
「やめてくれ!」
再び薙刀を握り直した女。だが――銃声が響く。
轟音と共に紫が目をつむり、女の身体が崩れ落ちた。般若の面だけが、カラン、と床に転がる。
そして次の瞬間――世界が鏡のように割れた。
気づけば、二人は洗面所に立っていた。
紫は濡れた髪を押さえ、ぽかんと雅也を見上げる。
「……な、なんだったの、あれ」
「さぁな。霊っぽくもないし、人や術師でもなさそうや。異次元の怪異でもいたんかもな」
「異次元人の襲来って言うと、一気に嘘っぽくなるね」
「幽霊や怪異かて、知らん人間からしたら十分嘘っぽいけどな」
雅也は肩をすくめ、煙草に火を点けた。だが、手がわずかに震えていた。紫はそれに気づいたが、何も言わない。
「先生って、いつもそう。なんでも"まぁええわ"で終わらせるんだから」
「深く考えすぎんこっちゃ。俺の処世術や。人生、そうせんとやってられん」
「……そんなもんかね」
「そういうもんや。お前も大人になれば分かるわ」
雅也は煙草を咥えたまま、紫を一瞥する。
「……何よ。湯冷めしちゃったし、一緒に入る?」
「そういうこと言うてるうちは、人生の"滋味"ってやつは分からんやろな」
呆れたように風呂場を後にする雅也。紫は頬をふくらませながらも、少し嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、雅也はほんの少しだけ表情を和らげる。
二人の声が、夜更けの家にゆっくりと溶けていった。
この夜、雅也に締め切りの修羅場が訪れたのは言うまでもない。




