スケッチブックの少女
「先生、この子……泊めてあげてもいい?」
紫が、少しおずおずしながらも期待に満ちた顔で玄関に立っていた。隣には、大きなスケッチブックを抱えた少女。どこか虚ろな瞳で、日焼けもない色白の顔がぼんやりと浮かんでいる。
「……なんやコイツは」
煙草をくわえた雅也が、露骨に眉をしかめた。
「公園でいつも絵を描いてる子なんだ。家に帰りたくないみたいで……ちょっとの間だけ、お願い!」
少女は小さく頭を下げた。
「……お願いします」
声は、消え入りそうなほど細い。
「アホか。俺ん家は学童保育ちゃうぞ」
「そんなこと言いながら先生、いつも助けてくれるじゃん」
「んなもん、なりゆきでそうなっとるだけで、本来はおかしいんやぞ。お前がここにずっとおるのも」
「じゃあ私がこの子を見つけたのもなりゆきでしょ? お願い、この子もすごく辛そうだし」
紫は一歩も引かない。雅也は煙草の煙を長く吐き出し、天井を仰いだ。沈黙が数秒流れる。
「……一晩だけやぞ。それ以上は知らん」
「やった! ありがとう先生!」
紫が少女の手を引いて家に上がる。雅也はその背中を見送りながら、小さく舌打ちした。
夜更け。
紫が風呂場で鼻歌を歌っている間に、雅也の書斎の襖がすっと開いた。
「眠れんのか」
振り返らずに問う雅也。机の上には灰皿と煙草の箱、それに読みかけの文庫本。
「……泊めていただいたことには感謝してます」
少女はスケッチブックを抱いたまま、静かに部屋へと入った。足音はほとんどしない。
「ふん。礼なら紫に言え」
雅也は興味なさげに煙を吐く。
「でも……私、人を見る目には自信があります」
「ほう。ええことやないか」
「あなた、やっぱり悪人ですよね」
雅也の手が止まった。煙草の煙だけが、ゆらゆらと昇っていく。
「……なるほど、なかなか鋭いで嬢ちゃん。当たらずとも遠からずや。けど人てな大抵、そういうもんちゃうか。聖人君子なんぞそうそうおらんやろ」
「詭弁ですね」
少女の声は平坦だった。
「でも、この家は素晴らしい。紫さんは優しい。だから――しばらくいたい」
「おもろい論法やのう。俺は近所にアパートでも借りて住めと?」
「いえ、そんな手間は取らせませんよ」
少女の目が、初めて光を帯びた。狂気の色を宿して。
「――あなたを殺します」
パサリとスケッチブックが開かれる。
ページから飛び出したのは、両腕が刀に変わった異形の獣。血走った目をギラつかせ、低い唸り声を上げながら雅也に襲いかかる。
雅也は煙草を指で弾いた。
火の部分が化け物の顔に触れるや否や、バシュッと炎が走り、獣は一瞬で紙くずに変わり、灰となって床に舞い落ちた。
「な……!」
「おもろい芸当や。それで食うてけるんちゃうか」
雅也は新しい煙草を取り出しながら、淡々と言った。
「お前の術式は紙を媒介にしとる。相性が悪かったな。俺のは火の術式や」
「くっ……!」
少女は歯ぎしりをし、必死で次のページを開いた。
同じタイミングで雅也が机を指で軽く叩く。カツン、という乾いた音。
次の瞬間、スケッチブックが燃え上がり、少女の手から滑り落ちて床に落ちる。
「あ……」
唖然とする少女。
「この家自体が俺の結界や。この家でその術式はそもそも使いもんにならん。残念やったな」
雅也は煙草に火をつけた。
「それにしても、いきなり殺りに来るとは。お前も大概ワルやのう」
「ヤクザのあなたなんかに言われたくない。私のことなんて何も知らないくせに!」
「『元』ヤクザや」
雅也は煙を吐いた。
「一週間前、隣の県で一家惨殺があったんは知っとるやろ。行方不明の娘が一人おって……お前やな」
少女の顔が一瞬ひきつり、次いで狂気に染まった。
「私は違う! 私はただ、ここにいたいだけ! 追い出さないで……!」
「やり直す気あるんなら、まだ遅くない。降参せえ。悪いようにはせん」
「嫌ァァァァ!」
少女は床に崩れ落ち、顔を両手で覆い跪く。嗚咽が響く。肩が震えている。
「……終わりや」
静かな声で雅也が言った。
「……みんな死んだの。パパもママもお兄ちゃんも。私が、私が殺した……」
「知っとる」
「なのに、なんで……なんで助けようとするの……」
「助けるとは言うとらん。せやけど――」
その時、襖が勢いよく開いた。
「先生ー? あの子どこ?」
風呂上がりの紫が書斎を覗いた。髪を拭いていたタオルが、床に散らばった灰を見て止まる。
「……何があったの」
「ちょっとした話し合いや」
雅也は短く答えた。
紫はすぐに状況を察したようで、少女の隣にしゃがみ込んだ。
「……帰りたくないんだよね」
「うん……」
「じゃあ、もうちょっとだけここにいなよ。先生は怖い顔してるけど、本当は優しいから」
「優しくなんかあらへん」
「はいはい」
紫はにっこり笑って、少女の手を取った。
「ほら、立って。部屋、案内するから」
少女はおぼつかない足取りで立ち上がり、紫に連れられて書斎を出た。
雅也は灰皿に煙草を押し付け、小さく呟いた。
「……ワシは優しくなんかない。ただのなりゆき……なりゆきなぁ」
窓の外では、月が静かに照らしていた。
翌朝。
「先生、あの子、警察に連れてくの?」
朝食の席で、紫が尋ねた。目玉焼きを箸でつついている。
「当たり前や。殺人犯やぞ」
と言ったものの、じゃあ俺はどうやねん、と雅也は心の中で苦笑した。
「でも……」
「とは言え、どうなるかな。絵から出てきた化け物が殺しましたなんて警察は信じんやろ」
雅也は味噌汁を啜った。
「せやけど、弁護士は紹介したる。うちの組でよくお世話になってた凄腕や。まぁ後は見守るしかないやろ。まだ15かそこらやろ、まだやり直せる」
紫は目を丸くした。
「……先生、やっぱり優しいじゃん」
「うるさい。飯食え」
雅也は煙草に火をつけ、窓の外を見た。
少女は庭で、朝日を浴びながらノートに何かを描いていた。
今度は怪物ではなく、花だった。小さな、名も知らぬ花が、一輪。




