ハーメルンの夜
その日、紫は珍しく元気がなかった。
いつもならソファを占領してゲームに夢中になっているのに、今日はうつろな目で窓の外を眺めている。
「おい紫。どうしたんや、飯もろくに食うてへんやろ」
雅也は煙草をくゆらせながら、ちらりと視線を送った。
「……なんか調子出ないし。今日は帰るよ」
紫は曖昧に笑い、立ち上がる。
「らしくないのう。いつもやったら"だるいから泊まる"とか言うんちゃうんか」
「なんだろう。今日はなんか帰りたい気分なんだ。私も分かんないけど」
「ふん、好きにせえ。けど暗いんやから気ぃつけて帰れよ」
口調はぶっきらぼうだが、その眼差しにはわずかな心配が滲んでいた。
夜道。
住宅街の静寂を破るように、どこからともなく笛の音が響いた。その音色は美しく、そしてどこか寂しげだった。
紫の足が止まり、瞳が虚ろに揺れる。音色に引き寄せられるように、ゆっくりと歩き出す。
街灯の下には、妙な出で立ちの男が立っていた。黒い外套に魔法使いめいた衣装。住宅街の中で、その姿は異様なほど浮いている。
細長い笛を吹き、唇には冷たい笑み。
「……いい子だ。もっと近くへ」
紫の歩みは止まらない。あと一歩で男の手が届く――その瞬間。
――鈍い衝突音。
車のライトに照らされ、笛吹きの身体が宙を舞った。
呻き声と共に、笛吹きは意識を取り戻す。耳に飛び込んできたのは、土を掘る鈍い音。
ザク、ザク、とシャベルが地面を削る。
「……なん、だ……?」
月明かりに浮かぶ影。冷ややかな目をした男が、黙々と穴を掘っていた。人ひとり埋めるには十分な深さだ。
「痛い……病院へ……連れて行ってくれ。骨が折れてる……」
身体を起こそうとするが激痛で顔を歪める。手足は縄で縛られていた。
雅也はスコップを止め、ゆっくりと振り返る。煙草の火が闇に赤く光った。
「目ぇ覚めたか。ちょうどええわ」
「これは……まさか……かなりまずい状況か」
「察しがええのう。状況で言えばお前は詰みや」
雅也は鼻で笑い、スコップを投げ捨てる。腰から銃を抜き、弾倉を確認した。
「取引をしないか。あんたヤクザだろ。1000万……現金で用意する。それで手打ちにしてくれないか」
「おもろい事言うのう。的外れもええとこや」
「じゃあ情報か? バックの組織か? 依頼人か? なんでも言うぞ!」
「分かっとらんのう」
雅也の声が低く落ちる。銃口が笛吹きの額に突きつけられた。
「俺はヤクザやない。お前が何者で、どこの組織の下っ端か、そんなんどうでもええんじゃ」
「お前が子供に手ぇ出そうとした。その時点で万死に値するんや」
鬼の形相に、笛吹きは恐怖で息を詰める。こいつは話が通じない――。
煙草を地面に捨て、靴で踏み消す。
笛吹きは涙を流し、命乞いを始めた。
「す、すみません……もう二度としません……だから……」
「二度と、な」
銃口が再び額に押し当てられる。
「ああ、確かに二度とせえへんやろな」
「待っ――」
乾いた銃声。
笛吹きは短い悲鳴を上げ、地面に崩れ落ちた。
雅也は無表情のまま掘りかけの穴を見下ろす。煙草に火を点け、深く吸い込んだ。
夜の闇が、すべてを呑み込んでいく。
深夜。
紫は布団の中でゆっくりと目を開けた。見慣れた天井、見慣れた匂い。――雅也の家だ。
「……あれ、私……?」
「目ぇ覚めたか」
居間から声が飛んでくる。雅也がビール片手にこちらへ来た。どこかあきれたような、しかし安堵したような態度。
「ほんまお前はトラブルメーカーやのう。ややこしい奴ばっか寄ってくる。まぁ今日は泊まってけや。俺もしんどいわ」
「え……私……? なんか、迷惑かけちゃった……?」
まだ何が起こったのか分からず戸惑う紫。
「ハーメルンの笛吹き男や。お前、誘拐される一歩手前やったぞ」
「ハーメルンの……何?」
「まずそっからか。もうええわ。とりあえず助かった、それだけ分かっときゃええ」
雅也はそっぽを向き、煙草に火を点ける。紫には見せまいとしたが、手は震えていた。
「……先生」
紫がぽつりとつぶやく。
「大丈夫? なんかいつもより疲れてるように見えるけど」
「お前に心配される雅也さんやない。こんなん屁でもないわ」
吹き出すように笑い、頭をかく。
「え〜、さっきめっちゃしんどそうだったけど」
「うっさいわ。なんかケチがついたのう。明日は焼肉でも食べに行くか」
「あっ、また誤魔化した。先生は嘘が下手だね」
「ほんま、可愛げのないガキやな……まぁええ。終わったことや。気にすんな。湿っぽいのは性に合わん」
「……うん」
紫は小さく頷き、安心したように目を細めた。
雅也はビールを一気にあおる。心の奥に浮かんだ言葉を、ぐっと飲み込んだ。
窓の外では朝日が昇り始めている。どこかで鳥が鳴いた。
――何事もなかったかのような、穏やかな朝だった。




