天井を歩く女
旅館の大広間に、夕餉の匂いが立ち込めていた。畳に並んだ御膳には焼き魚の焦げた香ばしさ、旬の山菜の天ぷらが湯気を立て、土瓶蒸しからは上品な出汁の匂いが漂う。窓の向こうでは、黒々とした山影が闇に溶け込み、虫の音だけが夜の静寂を支配していた。
「うわぁ……! 豪華! すごい、こんな料理初めて見る!」
紫は目を輝かせて箸を取った。その無邪気さに、雅也は思わず表情を緩める。
「アホか。ちょっとは味わって食えや」
苦笑いを浮かべながら、雅也は盃を口に運んだ。酒の苦味が喉を通り、胸の奥の重い感情を少しだけ軽くしてくれる気がした。
「ええやんか。若い子が美味しそうに食べるんは、見てて気持ちええもんやで」
静がしとやかに微笑み、紫の皿に天ぷらを取り分ける。その仕草は優雅で、どこか母親のような温かさを感じさせた。
「ありがとう、静さん!」
紫がもぐもぐと頬張る姿を眺めながら、雅也はふと静の横顔を見つめた。薄明かりに照らされた彼女の表情には、どこか影が差している。
「静さんは巫女だったんですか?」
紫が料理を頬張りながら尋ねる。
「あら、雅也さんから聞いたんか。せや。神社に仕えて、結界張ったり、護符を作ったりするのが得意やったんよ」
静は遠い目をして、盃を見つめた。
「でも、もう昔の話や。あの頃は……」
言いかけて、静は口をつぐんだ。静寂が三人を包む。
「もしあのままやったら……うちらの未来も、変わってたんやろなぁ」
静の声は、まるで風に消えそうなほど儚く響いた。紫は箸を止め、二人の間に流れる重い空気を感じ取った。
雅也は咳払いをして、わざと乱暴に笑い飛ばす。
「アホ言え。どこの世界にヤクザと巫女が一緒になれるねん。世界が違いすぎるわ」
だが、その声には普段の威勢の良さが欠けていた。静はそれ以上何も言わず、ただ盃の中で揺れる酒を見つめ続けた。
夜更け。
紫は布団に潜り込み、うとうとと眠りに落ちかけていた。旅館の静けさが心地よく、意識が薄れていく。
そのとき――
ぎし……ぎし……
天井板が軋む音が聞こえた。
紫は薄目を開けた。最初は風のせいかと思った。しかし、音は規則的に響き、どこか足音のようだった。
ぎし……ぎし……
音はじわじわと近づき、やがて真上に差しかかった。紫の心臓が早鐘を打ち始める。
恐る恐る天井を見上げると――
そこには、逆さに張り付いた女がいた。
長い黒髪が重力に逆らって垂れ下がり、虚ろな瞳が紫を射抜く。口元がぐにゃりと裂け、笑みとも悲鳴ともつかない表情を浮かべている。女の顔は青白く、まるで溺れた死人のようだった。
「ひっ……!」
紫は息を呑み、布団を頭まで被った。闇の中で心臓が破裂しそうに脈打つ。
ぎし……ぎし……
音は止まらない。布団のすぐ上で響き続ける。紫は息をするのも忘れそうになった。
(消えて……消えて……!)
祈るような気持ちで、紫は勇気を振り絞って布団をめくった。
……誰もいない。
天井には何の変哲もない板があるだけだった。安堵の息をつこうとした瞬間――
布団の中に、ひんやりとした気配を感じた。
視線を下ろすと、そこに先ほどの逆さ女が潜り込んでいる。青白い顔が至近距離にあり、空洞のような瞳が紫を見つめていた。
「ぎゃあああああっ!!」
紫の絶叫が旅館に響き渡った。
電気が点き、眩しい蛍光灯の光が部屋を照らす。
「……やかましいわ! 何時やと思てるんや!」
苛立ち混じりに起き上がった雅也の声が隣の部屋から聞こえる。
紫が震える手で布団をめくると――
そこにいたのは、ケラケラと笑い転げる静だった。
「し、静さん!? 何してるんですか!」
紫は顔を真っ赤にして、震え声で抗議した。
「怖がりな紫ちゃん、ほんま可愛らしいわ。ついイタズラしとうなってまうの」
「けどさっき天井に張り付いていた女は……」
「私は足の力が強いから天井を歩いたり出来るんよ」
「ほとんど、妖怪やのう」
「雅也さん、なんか言わはった?」
笑顔で睨む静か、雅也は思わず視線を逸らす。
静は手で口元を隠し、悪戯っぽく肩を震わせた。その姿は確かに美しかったが、どこか底知れない恐ろしさも感じさせる。
「アホらし……これで眠られへんやないか」
雅也が頭を掻きながら布団から出ると、冷蔵庫からビールを取り出して一気にあおった。
「トランプならあるけど、やる?大貧民とか」
紫が無邪気に提案する。
「するかボケ。なんでそんなもんせなあかんねん」
雅也は吐き捨てるように言って、空き缶を机に置いた。
「ふふ……ほんま、おもろい夜やなぁ」
静は艶やかに笑った。その笑い声は美しかったが、まるで本当の幽霊のように、部屋の隅に不気味な影を落としていた。
「静さん、私も寝るんで離れてください」
「あら、かんにん。あんまり可愛いさかい、つい。ほんま、ずっと抱いていたいわ。雅也はん、紫ちゃん持って帰ってもええ?」
「ええっ、私は先生のところがいいです! 静さんなんか怖いし……あと、私の胸揉まないでください」
「あら、なんや嫌われてもうた。残念やわ」
静はそう言うと紫から離れ、冷蔵庫からビールを二本取り出すと、雅也の前に一本置いて目の前に座り、プルタブを開ける。
「何、お前まで起きてきとんねん」
「うちも目が冴えてしもうたわ。少しくらい付き合うてよ」
「私も私も!」
紫が嬉しそうに言いながらこちらに寄ってくる。
「やかましいわ。ええ加減にせえよ、お前ら」
やれやれと思いながらも、そう悪い気もしない。そんな複雑な心境を抱えながら、奇妙な三人の夜は更けていく。
窓の外では虫の音が響き、旅館は静寂に包まれている。だが、この一室だけは、不思議な賑わいに満ちていた。過去の影を引きずりながらも、今この瞬間だけは、三人とも笑顔でいられる。それが何より尊いことのように思えた。




