表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/22

天井を歩く女

挿絵(By みてみん)

旅館の大広間に、夕餉の匂いが立ち込めていた。畳に並んだ御膳には焼き魚の焦げた香ばしさ、旬の山菜の天ぷらが湯気を立て、土瓶蒸しからは上品な出汁の匂いが漂う。窓の向こうでは、黒々とした山影が闇に溶け込み、虫の音だけが夜の静寂を支配していた。

「うわぁ……! 豪華! すごい、こんな料理初めて見る!」

紫は目を輝かせて箸を取った。その無邪気さに、雅也は思わず表情を緩める。

「アホか。ちょっとは味わって食えや」

苦笑いを浮かべながら、雅也は盃を口に運んだ。酒の苦味が喉を通り、胸の奥の重い感情を少しだけ軽くしてくれる気がした。

「ええやんか。若い子が美味しそうに食べるんは、見てて気持ちええもんやで」

静がしとやかに微笑み、紫の皿に天ぷらを取り分ける。その仕草は優雅で、どこか母親のような温かさを感じさせた。

「ありがとう、静さん!」

紫がもぐもぐと頬張る姿を眺めながら、雅也はふと静の横顔を見つめた。薄明かりに照らされた彼女の表情には、どこか影が差している。

「静さんは巫女だったんですか?」

紫が料理を頬張りながら尋ねる。

「あら、雅也さんから聞いたんか。せや。神社に仕えて、結界張ったり、護符を作ったりするのが得意やったんよ」

静は遠い目をして、盃を見つめた。

「でも、もう昔の話や。あの頃は……」

言いかけて、静は口をつぐんだ。静寂が三人を包む。

「もしあのままやったら……うちらの未来も、変わってたんやろなぁ」

静の声は、まるで風に消えそうなほど儚く響いた。紫は箸を止め、二人の間に流れる重い空気を感じ取った。

雅也は咳払いをして、わざと乱暴に笑い飛ばす。

「アホ言え。どこの世界にヤクザと巫女が一緒になれるねん。世界が違いすぎるわ」

だが、その声には普段の威勢の良さが欠けていた。静はそれ以上何も言わず、ただ盃の中で揺れる酒を見つめ続けた。


夜更け。

紫は布団に潜り込み、うとうとと眠りに落ちかけていた。旅館の静けさが心地よく、意識が薄れていく。

そのとき――

ぎし……ぎし……

天井板が軋む音が聞こえた。

紫は薄目を開けた。最初は風のせいかと思った。しかし、音は規則的に響き、どこか足音のようだった。

ぎし……ぎし……

音はじわじわと近づき、やがて真上に差しかかった。紫の心臓が早鐘を打ち始める。

恐る恐る天井を見上げると――

そこには、逆さに張り付いた女がいた。

長い黒髪が重力に逆らって垂れ下がり、虚ろな瞳が紫を射抜く。口元がぐにゃりと裂け、笑みとも悲鳴ともつかない表情を浮かべている。女の顔は青白く、まるで溺れた死人のようだった。

「ひっ……!」

紫は息を呑み、布団を頭まで被った。闇の中で心臓が破裂しそうに脈打つ。

ぎし……ぎし……

音は止まらない。布団のすぐ上で響き続ける。紫は息をするのも忘れそうになった。

(消えて……消えて……!)

祈るような気持ちで、紫は勇気を振り絞って布団をめくった。

……誰もいない。

天井には何の変哲もない板があるだけだった。安堵の息をつこうとした瞬間――

布団の中に、ひんやりとした気配を感じた。

視線を下ろすと、そこに先ほどの逆さ女が潜り込んでいる。青白い顔が至近距離にあり、空洞のような瞳が紫を見つめていた。

「ぎゃあああああっ!!」

紫の絶叫が旅館に響き渡った。

電気が点き、眩しい蛍光灯の光が部屋を照らす。

「……やかましいわ! 何時やと思てるんや!」

苛立ち混じりに起き上がった雅也の声が隣の部屋から聞こえる。

紫が震える手で布団をめくると――

そこにいたのは、ケラケラと笑い転げる静だった。

「し、静さん!? 何してるんですか!」

紫は顔を真っ赤にして、震え声で抗議した。

「怖がりな紫ちゃん、ほんま可愛らしいわ。ついイタズラしとうなってまうの」

「けどさっき天井に張り付いていた女は……」

「私は足の力が強いから天井を歩いたり出来るんよ」

「ほとんど、妖怪やのう」

「雅也さん、なんか言わはった?」

笑顔で睨む静か、雅也は思わず視線を逸らす。

静は手で口元を隠し、悪戯っぽく肩を震わせた。その姿は確かに美しかったが、どこか底知れない恐ろしさも感じさせる。

「アホらし……これで眠られへんやないか」

雅也が頭を掻きながら布団から出ると、冷蔵庫からビールを取り出して一気にあおった。

「トランプならあるけど、やる?大貧民とか」

紫が無邪気に提案する。

「するかボケ。なんでそんなもんせなあかんねん」

雅也は吐き捨てるように言って、空き缶を机に置いた。

「ふふ……ほんま、おもろい夜やなぁ」

静は艶やかに笑った。その笑い声は美しかったが、まるで本当の幽霊のように、部屋の隅に不気味な影を落としていた。

「静さん、私も寝るんで離れてください」

「あら、かんにん。あんまり可愛いさかい、つい。ほんま、ずっと抱いていたいわ。雅也はん、紫ちゃん持って帰ってもええ?」

「ええっ、私は先生のところがいいです! 静さんなんか怖いし……あと、私の胸揉まないでください」

「あら、なんや嫌われてもうた。残念やわ」

静はそう言うと紫から離れ、冷蔵庫からビールを二本取り出すと、雅也の前に一本置いて目の前に座り、プルタブを開ける。

「何、お前まで起きてきとんねん」

「うちも目が冴えてしもうたわ。少しくらい付き合うてよ」

「私も私も!」

紫が嬉しそうに言いながらこちらに寄ってくる。

「やかましいわ。ええ加減にせえよ、お前ら」

やれやれと思いながらも、そう悪い気もしない。そんな複雑な心境を抱えながら、奇妙な三人の夜は更けていく。

窓の外では虫の音が響き、旅館は静寂に包まれている。だが、この一室だけは、不思議な賑わいに満ちていた。過去の影を引きずりながらも、今この瞬間だけは、三人とも笑顔でいられる。それが何より尊いことのように思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ