濡れた足音
真夏の陽射しが海面にきらめき、白い波頭が何度も浜辺へと打ち寄せては砕けていた。
「いぇーいっ!」
砂浜を駆けながら紫が勢いよく波打ち際へ飛び込み、ばしゃりと水しぶきを上げる。濡れた髪を振り乱しながら笑う姿は、どこか子どもっぽかった。
その背中を、日陰に設けられたビーチパラソルの下から雅也はうんざりとした顔で眺めている。
「……ほんま、ようやるわ」
「先生、せっかく海なんだからもうちょっと楽しそうにしたらいいのに」
紫はひとしきり泳いだようで、こちらに戻ってくる。
雅也は麦わら帽を目深にかぶり、缶ビールをあおる。
「楽しむ言うてもな。俺は泳ぐのあんま好きやないねん。お前が泳ぎたい言うから来ただけや」
「そんなこと言わずに一緒に泳ごうよ。気持ちいいよ」
「ええわい。もう酒飲んでもうてるし、お前だけで行ってこいや」
そんな二人のやり取りを、隣に腰かけていた女性が目を細めて見ていた。濡れ羽色の長い髪を後ろでひとまとめにし、薄い色のカーディガンを水着の上から羽織っている。年の頃は三十代に見えるが、その艶やかな肌と涼しげな顔立ちは若々しく、雅也と並んでいると妙に調和して見えた。
「紫ちゃん、ほんまに楽しそうやわぁ」
女――中禅寺静は、口元に手を添えて微笑む。その声音は柔らかく、京ことばの抑揚が心地よく響いた。
「……静さんは見てるだけでいいんですか?」
紫が振り向く。
「うちは泳ぐより、こうして見とる方が好きやねん。海風も気持ちええしなぁ」
紫は一瞬納得したように頷き、それから雅也と静を見比べて、ふと眉をひそめた。
「ねぇ、私たちって周りからは家族に見えるのかな」
「どうでもええわ。アホなこと言うとらんと、お前もちょっと休憩せえ。ちょうど昼飯時やし」
しかし、実際どう見えとるんやろな。ヤクザ風の男と京風美人、そしてその子供にしては大きすぎる少女。明らかに普通ではない。
「はぁ、なんでこんなことになっとんねん」
雅也の脳裏に、数日前の記憶が蘇った。
玄関のチャイムが鳴る。
「はーい」
紫がドアを開けると、そこに立っていたのは見知らぬ黒髪の女性だった。
「え……だ、誰?」
「あら、ごめんなさい。びっくりさせてしもうた?」
女性はにっこりと笑みを浮かべ、上品に頭を下げる。
奥から顔を出した雅也が、げんなりしたような声をあげた。
「……静、なんで来んねん」
「またそないなこと言うて。どうせご飯やら掃除やらええ加減にしてはるでしょ」
「え? え? 先生、この美人と知り合いなの? えっ、まさか元彼女とか」
紫は狼狽して雅也と女性を見比べた。
「そんなんやあらへん。……まぁ、そうやなぁ、あれはどういう関係になるんかな」
「言わんでええわい。こいつの教育上に悪いわ」
静は艶やかに微笑み、玄関へと上がる。
それから居間に通された静は、手際よく台所を片づけたり掃除をしたりしながら、まるで昔からそこに住んでいるかのように振る舞った。
そして帰り際、唐突に切り出したのだ。
「ねぇ、雅也さん、たまには息抜きに旅行でも行かへん? 今日来たのはその用事でもあったんよ。紫ちゃんも一緒に。ええ温泉宿、知っとるんよ」
「はぁ? 旅行? 面倒いのう」
「ええやんか。最近ずっと難しい顔ばっかりしてはる。たまにはのんびりして、心の垢を落とすのも必要や」
静はわざとらしく雅也の袖を軽く引き、上目づかいで見つめた。
「温泉? 私も行ってみたい。いいじゃん、先生、行こうよ。せっかくの夏休みなのにどこも行かないなんて勿体ないよ」
「お前は夏休み関係なく学校行っとらんやんけ」
「まぁまぁ、そないけんけん言わんと。うちが行きたいんや。付き合うてや」
「どいつもこいつも勝手やのう」
そう口では渋ったものの、紫には雅也の目尻がわずかに緩んだように見えた。
そして今日、こうして海水浴から始まる旅行の日程が組まれたのだった。
雅也は回想から我に返り、手元の焼きそばに視線を落とす。
「先生、どうしたの。ぼーっとして」
「なんでもないわい。しかし、人が多いのう。どいつもこいつも他に行くとこないんかい」
「あら、今なんか誤魔化しましたやろ。あんたは何か隠すときはそうやって、いつも意味のない悪態ついてはるもんな」
静は涼やかに笑う。
「余計なこと言うなや。これやからお前と会話すんの嫌やねん。もうええ、泳いでくるわ」
「あっ先生、私も私も」
「あんま沖へ行ったらあきまへんえ」
(……先生と静さん、どういう関係なんだろ)
雅也について行って泳ぎながら、紫の心にざらついた疑念が残り続けていた。
* * *
夜の温泉宿。山間にひっそりと佇む老舗旅館は、木造の廊下が軋むたびにどこか懐かしい音を響かせた。
「はぁ~……生き返る……!」
露天風呂から上がった紫は、頬を火照らせながら伸びをした。白い浴衣に包まれた体から、ほのかに湯気が立ちのぼっている。
「紫ちゃん、ほんま子どもみたいやなぁ」
隣を歩く静が、濡れた黒髪を手拭いで押さえながら微笑んだ。湯気に混じって漂う石鹸の香りが、紫の鼻をくすぐる。
「別にいいでしょ。気持ちよかったんだから!」
「ふふ。素直でかわいらしいわぁ」
静の声音はやわらかいが、その奥にどこか含みがあるように紫には聞こえた。
二人が廊下を歩いていると、しん……と空気が冷たく変わった。
「……ん?」
紫は立ち止まり、耳を澄ます。
――べちゃ。
濡れた素足が板張りを踏む音が、背後から微かに聞こえた。どうも普通の足音ではない。
「……後ろの足音、なんか変じゃない?」
「せやなぁ」
静は表情を崩さぬまま、ゆっくりと紫の肩に手を置く。
――べちゃ。べちゃ。
確かに誰かが後ろをつけてくる。水を滴らせながら近づいてくる気配。
紫は唾を飲み込んで振り返ろうとしたが、静に制された。
「見ん方がええ。……近ぅなってる」
音はだんだん速くなり、ほとんど真後ろに迫った。
紫は耐えきれず、反射的に振り返る。
そこには――髪から海水のような水を滴らせ、顔の皮膚がただれ、口いっぱいに黒い水を溜めた女の幽霊が立っていた。
「ひっ……!」
紫の悲鳴と同時に、女の顔がぐにゃりと歪む。血走った目がぎょろりと紫を捉えた瞬間、幽霊の全身に赤い炎が走った。
「ぎゃああああああ!」
燃え上がる女の影の向こう、煙草の火を押しつけるように掲げて立っていたのは――雅也だった。
「……なんかお前、また変なもんがついて来とったぞ。部屋に気色の悪いもん入れんなや」
煙草の火先がぼうっと揺れる。幽霊はたちまち燃え尽き、炭のように崩れて消えていった。
震えながら紫は雅也に駆け寄る。
「先生……さすが!」
「旅館とかはこういうことになるから嫌やねん。面倒臭い、煙草が一本無駄になったわ」
「ほんま、頼りになるなぁ、雅也さん」
静は手口元を隠しながら涼しい顔で笑った。
雅也は二人を見やって、呆れたようなため息をつく。
「アホちゃうか。静、お前も祓えるやろ。さっさと祓わんかい」
「そやけど……紫ちゃんが怖がっとるのん、ちょっとおもろうてなぁ」
静の声はあくまで柔らかい。だが、その瞳や声からはいまひとつ真意を読むことはできなかった。
「……ひどいですよ。静さんも人が悪いなぁ」
「ふふ。ごめんね。うち、ちょっと意地悪やったかもしれへん」
静は悪びれもせず笑みを残した。
雅也は肩をすくめ、煙草を携帯灰皿に押しつけながら言った。
「ほんま、面倒くさい女やで」
燃えかすの匂いだけを残して消えた幽霊。その廊下にはまだ湿った足跡が続いており、夜風がひんやりと吹き抜けていた。




