影女
私は景浦 文。
怪異――人は私を、影女と呼ぶ。
夕暮れ時、この喫茶店の窓側の席。
私はいつも、決まってこの時間にここへ来る。それが私の日課だ。
ガラス越しに差し込む西日が、床に長い影を落とす。人の影は正直だ。その人間の疲れ、欲、恐れ、執着――すべてが滲み出る。
私は影を喰う。
影とは魂だ。人それぞれ、驚くほど味が違う。
私は今日も席に腰を下ろし、獲物を吟味する。視線は合わせない。ただ影を見る。
(……今日はこの女にしよう)
目利きには自信がある。
呟いた瞬間、私の影が床の上で歪んだ。ぬるりと伸び、獣の形を成す。
影の獣が、女の影に噛みつく。引きちぎる。
「……美味い」
花畑を思わせるフローラルな香り。ビスケットのような穀物の甘さ。余韻には、日本の線香を思わせる落ち着いた香気。わずかにケミカルな癖はあるが、十分だ。
私はその辺のバカな怪異とは違う。食べるのは、ほんの少量。獲物が体調を崩すか、崩さないか――そのぎりぎり。
定期的に河岸を変え、決して欲張らない。目立たず、静かに。これが、私なりの処世術というやつさ。
――だが。
(……あの時の味)
脳裏に、あの影が蘇る。
甘酸っぱいレモンやオレンジのような爽やかな香り。カスタードクリームの柔らかなコク。ピュアで、雑味のない甘さがいつまでも続く。余韻はウッディ。カラメルソースのような、ほろ苦さが全体を引き締める。
今まで喰った中でも、格別だった。
あの時は、少し――ほんの少し、食べ過ぎた。だが問題は起きなかった。だから、来てしまった。
(……一度くらい)
一度くらい、いいだろう。今まで、何の問題もなかったんだから。
胸が、少し躍る。
その時だった。
「……」
いつの間にか、向かいの席に男が座っていた。
鋭い目つき。纏う空気は、刃物のように冷たい。
――関わってはいけない。
本能が、そう告げている。
男は私を睨み、低く言った。
「裏稼業のコツはな、静かに、お行儀よくや」
心臓が、わずかに跳ねる。
「もうちょっと。あと一回だけ。その一歩の遅れが致命傷になる」
「……何の話でしょうか」
一応、とぼけてみる。
男は薄く笑った。
「後学のためや。闇稼業のイロハのイ」
煙草を咥えたまま、続ける。
「まぁ――お前に次はないけどな」
(……舐めるな)
私は立ち上がろうとし、影に命じた。ここで殺せばいい。
影は獣へと変じ、男の影へと襲いかかる――
だが。
微動だにしない。
影女の血の気が、一気に引いた。
足元を見る。
――釘。
自分の影に、幾本もの釘が打ち込まれている。
「……影縛り」
立ち上がろうとするが、身体が動かない。
男――雅也は、ゆっくりと立ち上がった。一歩、また一歩。近づいてくる。
恐怖が、喉を締め付ける。
雅也は咥えていた煙草を外し、私の影へと触れさせた。
じゅっ、と音がした。
次の瞬間。
燃え上がる。
「――――ッ!!」
悍ましい悲鳴が、喉から漏れた。影ごと焼かれる感覚。逃げ場はない。
雅也は淡々と言う。
「ホンマの阿呆はな」
煙を一服、吸い込みながら。
「自分を賢い、自分はうまく立ち回っとるって思い込んどる阿呆なんやで」
私は、言葉を失ったまま――消えた。
*
「お客様、ここ禁煙です」
ウェイトレスの声。
雅也は「ああ」と小さく呟き、携帯灰皿に煙草をもみ消した。
「締まらんのう」
彼が席を立つと、そこには――かすかに、黒い煙のようなものが漂っているだけだった。
夕暮れの喫茶店は、何事もなかったかのように、静かだった。




