伝染する悪夢
昼下がりの教室は、妙にざわついていた。
窓から差し込む光が、机の上に曖昧な影を落としている。
「ねえ、昨日見た夢の話してもいい?」
桃花の向かいで、友人、伊織栞子が声を潜めた。
栞子は興味深そうに身を乗り出し、桃花は少しだけ身構える。
「夢?」
「うん……すっごく、嫌な夢」
栞子は一度、周囲を見回してから話し始めた。
暗い夜道を、一人で走っている夢。
理由は分からない。ただ、背後から"何か"に追われていると本能が告げていた。
息が切れて、足がもつれそうになって――
振り向いた瞬間、見えた。
包丁を握った女。
顔はぼんやりしているのに、笑っているのだけははっきり分かる。
「逃げても逃げても、距離が離れていかなくて……」
追いつかれ、腕を掴まれ、包丁が振り上げられる。
「刺される、って思った瞬間に目が覚めた」
桃花は、思わず息を呑んだ。
「……怖……」
「でしょ?」
栞子は妙にあっさり笑った。
「噂なんだけどさ。その夢で女に殺されると、現実でも死ぬんだって」
「え?」
「でもね、人に話すと見なくなるらしいの。代わりに――聞いた人がその悪夢を見る」
その瞬間、桃花の思考が一拍遅れて追いついた。
「……ってことは」
栞子は立ち上がり、鞄を肩に掛ける。
「というわけで、次は桃花ね。頑張って」
「ちょ、ちょっと!」
振り返りもせず、栞子は教室を出ていった。
その背中は、どこか軽やかで――少しだけ、楽しそうに見えた。
桃花は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
その夜。
布団に入っても、目を閉じるたびに不気味な女が脳裏に浮かぶ。
眠るのが、怖い。
(……そうだ)
ふと思い出した。
「人に話せば、見なくなる」
桃花はスマホを掴み、紫に電話をかけた。
事情を説明すると、受話器の向こうで深いため息が聞こえた。
『……桃花も大概ひどいよね』
「ご、ごめん……けどどうせ奥川さんの家にいるんでしょ」
「まぁそれはそうだけど別にいいじゃん」
「女子高生が元反社のオッサンの家に寝泊まりしてるって普通におかしいでしょ」
「おかしくないよ。桃花には関係ないでしょ」
『まぁいいわ。それにワンチャン、紫なら倒せるかもだし。最悪、奥川さんに泣きつけばいいでしょ』
「調子いいなぁ……まぁいいや。面白そうだし。じゃ、切るね」
通話は一方的に終わった。
桃花は胸の奥が、少しだけ軽くなるのを感じていたが同時になんかもやもやした気分が湧いたのも確かだった。紫を巻き込んでしまった自責の念。と同時になんとも言えない嫌な予感。桃花はなかなか布団に入ったもののなかなか寝付けなかった。
*
一方、紫は布団に潜り込み、すぐに眠りに落ちた。
――夢。
暗い夜道。
湿った空気。足音が、自分のものではない。
振り向く。
いた。
包丁を持った女が、歪んだ笑みを浮かべて走ってくる。
「……ふうん」
紫は、立ち止まった。
距離。速度。間合い。
頭が妙に冴えている。
(近い。踏み込みが甘い)
女が腕を振り上げた瞬間、紫は前に出た。
鈍い衝撃。
前蹴りが腹部に突き刺さり、女の身体が前のめりに折れる。
「……効く」
確信した。
紫は笑って、一言だけ言った。
「悪いね」
脇腹への鉤突き。
さらに連撃。
肉を打つ感触が、夢とは思えないほど生々しい。
女は呻き、形を崩し――暗闇に溶けた。
紫は拳を握りしめたまま、目を覚ました。
掌に、まだ嫌な感触が残っていた。
「……やっぱり、夢でも一緒か」
ぽつりと呟き、再び眠りに落ちた。
*
翌朝。
雅也の家の呼び鈴が、けたたましく鳴り響いた。
不機嫌そうに戸を開けると、そこにいたのは桃花だった。
泣き腫らした顔で、必死に訴える。
「見たんです……! 血まみれで、顔が腫れた女が襲ってくる夢……!」
「紫に頼ったの、バカでした……!」
雅也は一歩引いた。
「……なんの話や、それ」
背後から、眠そうな紫が顔を出す。
「紫なんか、知ってるんか?」
「さあ? 知らない」
悪戯っぽく笑う。
「悪い夢でも見たんじゃない?」
雅也は紫をじっと見て、煙草に火をつけた。
「……お前、夢の中で何した」
紫は答えなかった。
ただ、少しだけ拳を握りしめていた。




