川姫
放課後の川沿いは、夕暮れになると急に静かになる。
紫がそこを歩いていた時、不意に背後から声をかけられた。
「君、ちょっとお姉さんとお話ししないかい」
「……え?」
振り向くと、ガードレールに腰掛けた女がいた。長めのポニーテールを揺らし、白いTシャツに破れたジーンズ。どこにでもいそうなのに、足元だけが川の水に溶けるように揺れている。
「誰……?」
「誰って言われると困るなあ。まあ、人は私の事を川姫って呼ぶ事もあるかな」
「……何、それ」
「川姫って呼ばれる妖怪って事さ。怖い?」
紫が苦笑すると、川姫は肩をすくめた。
「その反応、慣れてるね。怖がらないんだ」
「全然、それっぽくないから。その恰好、ただのその辺にいる人にしか見えないよ」
「そりゃあ君、さすがに現代で和服は目立ちすぎるからね。今風の格好をしているのさ」
「変わってるね。そんな妖怪初めて見た」
「そうでもないさ」
川姫はそう言って、川を見下ろした。
それから紫は、ちょくちょくその川に立ち寄るようになった。
「紫さ、学校行ってないでしょ?」
「川姫もそういう事言うんだ」
「いや、今日平日だし、君、制服じゃないし」
「何、川姫も学校行った方がいいよとか言うの?」
「まさか、私は行った事ないからどんなとこか興味があるだけ」
「大したとこじゃないよ。本当に。クソみたいなとこ」
紫の表情に苦悶がわずかに滲む。
「ふーん。私はずっとここだから、正直羨ましいな」
「飽きる?」
「飽きるよ。そりゃ。けど生まれてからずっとこうだし嫌いじゃない」
そう言って笑う川姫は、驚くほど人間っぽかった。
川姫がぽつりと言った。
「紫ってさ、変わってるよね」
「そう?」
「普通なら近づかないもん。私みたいなの」
紫は少し考えてから、静かに答えた。
「……なんでだろう。なんとなく話してみてみたくなっただけだよ」
川姫は一瞬だけ黙り、それから軽く笑った。
「こんなに人と話すのも久々だからなんか嬉しいよ」
けれど、ある日を境に紫は来なくなった。
一日、二日。川姫は何も言わず、川面を眺めていた。
三日目の夜、雨の中で足音がした。
「……あんたが川姫か」
現れた男は、一目でただ者ではない雰囲気を醸し出しており、鋭い眼光は鋭利な刃物を彷彿とさせた。
「パッと見、妖怪には見えんな」
「紫は?」
男――雅也は、短く息を吐いた。
「倒れた。原因は、あんたに長く会いすぎたせいや」
川姫は、分かっていた。
「……やっぱりか」
「自覚は?」
「ある。最初から」
川姫は立ち上がり、雨に濡れたポニーテールを払った。
「人と近くにいれば、少しずつ命を削る。だから普段は距離を取ってる」
「ほう? 知っとってやったんかい」
「楽しかったから、つい。悪かったね」
即答だった。
「久しぶりに、ちゃんと話した。笑った。それだけ」
川姫はどこからともなく刀のようなものを取り出し、涼しげな表情で雅也に向かって切りかかる。
雅也は銃を構えた。橋の下で轟音が響く。
川姫は胸を押さえ、跪く。
「こんな妖怪も珍しいな」
「ここで祓っておいてもらわないとまた会いたくなっちゃうしね」
川姫は、あっさり頷いた。
「正直、いつかこうなると思ってた。こんな生活もいい加減うんざりしてたし……」
その時だった。
「……待って」
雨の中から、紫が現れた。
「紫!?」
雅也が驚きの声を上げる。川姫も目を見開いた。
「無理して来たんでしょう、あなた」
「だって……」
紫は川姫を見て、少し困ったように笑った。
「ちゃんと、さよなら言いたくて」
川姫の身体が、雨に溶け始める。
「ごめん。巻き込んだ」
「違う」
紫は首を振った。
「私も楽しかった」
川姫は一瞬、目を見開き――それから小さく笑った。
「……それなら、まあ、いいか」
そう言って、川姫は消えた。最後に浮かんだ表情は、どこか肩の力が抜けた、穏やかなものだった。
雅也は符を下ろし、煙草に火をつけた。
「救われたな、あいつ」
紫は何も言わず、川を見つめていた。
川は今日も、静かに流れている。




