すすり泣く市松人形
最初に異変に気づいたのは、桃花だった。
昼休みの校舎。教室のざわめきの中、ふと耳に引っかかる音があった。
――ひっ、く……ひっ……
誰かが、泣いている。すすり泣くような、喉の奥で必死に殺しているような声。
「……?」
周囲を見回す。だが、誰も気に留めていない。友達は普通に笑い、廊下を通る生徒もいつも通りだ。
「ねえ……今、泣き声聞こえなかった?」
恐る恐る隣のクラスメイトに尋ねると、首を傾げられた。
「え? なにそれ。聞こえないけど」
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
――聞こえているのは、自分だけ。
放課後、噂好きで有名な女子にその話をすると、彼女は目を輝かせた。
「それ、絶対あれじゃん。『すすり泣く市松人形』」
「……市松人形?」
「この学校の有名な怪談だよ。被服室の隣の準備室にあるんだって。夜になるとすすり泣いて、たまに徘徊もするらしいよ」
ぞっとする話だった。
「先生たちもね、夜中に泣き声聞こえたら、何があっても帰るんだって」
その言葉が、妙に現実味を帯びて胸に残った。
夜の学校。非常灯だけがぼんやりと廊下を照らしている。
「……なあ、どうでもええけどな」
先頭を歩きながら、雅也が不機嫌そうに呟いた。
「見つかったらどう説明すんねん。俺、部外者やぞ」
「紫のお父さんってことで……」
桃花が弱々しく言う。
「えっ、嫌なんだけど」
紫が即座に拒否する。
「お前ら、ほんまいい加減にせえよ」
雅也は煙草を取り出し、火をつけようとした。
「あっ、校内禁煙です。奥川さん、ダメですって」
「勝手にせえや」
悪態をつきながらも煙草をしまい、歩き出す。
被服室の前に立った瞬間――はっきりと聞こえた。
――ひっ……ひっ……
確かに、泣き声だ。
「……っ」
桃花が思わず紫の袖を掴む。
「噂やと、人形は準備室やったな」
雅也は短く言い、準備室の鍵を開ける。ドアノブに手をかけた、その瞬間。
――ぞわり。
空気が、変わった。肌に圧がのしかかるような、息が詰まる感覚。
「……先生」
紫の声が震える。
「これ、やばくない? 私、この部屋入りたくないんだけど」
「お前らはそこにおれ」
それだけ言うと、雅也は準備室に足を踏み入れた。
中は雑然としていた。埃を被った箱、古い衣装、長い間誰も入っていないことが一目で分かる。
――そして。
椅子の上に、それはいた。
市松人形。
だが、あまりにも大きい。百二十センチはあるだろうか。和服を着せられ、背筋を正して椅子に座り、まるでずっとここで待っていたかのように。
その視線が、こちらを凝視しているように見えた。
悍ましい。
数多くの怪異を見てきた雅也だったが、これほど「逃げたい」と本能が叫んだのは久しぶりだった。
雅也はゆっくりと後ずさりし、何も言わず準備室を出た。
被服室を出ると同時に、雅也は廊下に座り込んだ。震える手で煙草に火をつける。
「奥川さん、煙草ダメだってば……」
「先生、そんなにやばそうだった?」
紫の問いに、雅也は低く答えた。
「やばいなんてもんとちゃうわ……」
深く煙を吐く。
「なんやあれ。寺とかに封印しとかなあかんレベルやぞ」
「いつもみたいに、燃やせないんですか……?」
「あんなもん、俺ごときの術で祓えるかい」
雅也は苦々しく言った。
「命、いくつあっても足らん」
「じゃあ……どうすんの」
「……嫌やけど」
雅也は立ち上がり、煙草を踏み消した。
「話を聞きに行くしかないのう」
旧校舎。民俗学研究部の部室の引き戸が、勢いよく開いた。
「――おい」
布団で寝ていた根地夕子が飛び起きる。
「えっ!? なに!? 何時!?」
「ほんまに部室で寝とるぞ、この女」
雅也が呆れたように言う。紫は冷めた目で見下ろし、桃花は頭を抱えた。
「仮にも女子高生の寝室に無断侵入とか、デリカシーなさすぎない?」
「普通の女子高生は学校で寝泊まりせえへんねん」
雅也は即座に切り捨てた。
「被服室の人形はなんや。説明せえ」
「ああ、アレね」
夕子は妙に嬉しそうに言った。
「ランクで言えば特Aランクの呪物だよ。なかなか――」
「御託はええ」
雅也が遮る。
「どうせお前のもんやろ。泣き声で桃花が怖がっとんねん。さっさと持って帰れや」
「バカ言うな」
夕子は真顔になった。
「あれはもともと、あそこに『ある』モノだ。私も祓おうとしたし、封印も試した。でも無理だった」
沈黙が落ちる。
その時。
――ひっ……ひっ……
旧校舎の廊下に、子供の泣き声が響いた。
全員が、同時に視線を向ける。廊下の先に――
市松人形が、立っていた。
「……っ!」
雅也が即座に引き戸を閉め、鍵をかける。
重たい沈黙が、部室を満たした。引き戸の向こうで、何かが床を擦るような音が、しばらく続いていた。
だが、やがてそれも遠ざかり、旧校舎には不気味な静寂だけが残った。
「……なんてものを連れて来るんだ」
沈黙を破ったのは夕子だった。布団の上に腰を下ろし、髪を掻き上げながら不満を隠そうともしない。
「私まで巻き込まれたじゃないか」
雅也は壁にもたれ、煙草に火をつける。
「さっき言うとったな。あれは『あそこにあるもの』やって」
「ああ」
夕子は軽く頷いた。
「由来は不明なんか」
「不明、というより――追えない」
夕子は珍しく真面目な表情になる。
「おそらく、かなりの数の人間を呪い殺している。あの人形自体が呪詛の塊みたいなものさ。だから祓えないし、封じられもしない」
「……なるほどな」
「それだけじゃない。あれは厄災や怪異を呼び寄せる」
桃花が息を呑む。
「この地域で怪現象が多い一因でもある。人形が原因で起きた事件も、そうでない事件も、全部引き寄せられる」
「厄介やのう」
雅也は短く吐き捨て、煙を天井へ逃がした。紫が、不安げに辺りを見回す。
「……でも、さっきすぐ戸を閉めたのは正解だったよ」
夕子が指で引き戸を指す。
「ここ、民俗学研究部の部室は最高クラスの結界が張ってある」
「さすがに、あの人形でも入って来れないってこと?」
紫の問いに、夕子は胸を張る。
「その通り」
「じゃあ――」
紫は少し安心したように言った。
「ここに朝までいれば、とりあえずは安全ってこと?」
「朗報やのう」
雅也は乾いた笑みを浮かべる。
「今、九時。この時期、完全に明るうなるのが六時や」
「……」
「それまで、こんなとこで缶詰かい」
「『こんな所』とは失礼だな」
夕子はむっとして立ち上がる。
「お菓子もジュースもあるし、パジャマパーティーでもするかい?」
「……パジャマないよね」
紫が冷静に突っ込む。
「気にするとこ、そこかい」
雅也が呆れる。
その時だった。
「……あの」
控えめな声で、桃花が手を挙げる。
「根地先輩。お風呂と、トイレは……?」
「いい質問だ、水見君」
夕子は一瞬だけ目を逸らし、にこりと笑った。
「残念ながら、ここにそんな文明的なものはない」
「え?」
「ただし」
夕子は人差し指を立てる。
「こういう事態を想定して、簡易トイレは用意してある」
桃花は愕然とし、言葉を失う。
「それと、風呂だが――」
夕子は部室の隅を指差した。
「台所があるから、そこで――」
「いやああああああああっ!!」
桃花の悲鳴が、闇夜の旧校舎に響き渡った。




