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山婆の餌

挿絵(By みてみん)

囲炉裏の火が、ぱちぱちと乾いた音を立てながら静かに燃えていた。

古い日本家屋。梁は黒く煤け、壁は年を重ねた木の匂いを放っている。薄暗い部屋の隅々まで、影が這っていた。

「黒井と言います。助かりました」

囲炉裏を挟んで座る青年は、深々と頭を下げた。

「こんな山で遭難してしまうなんて……本当に、ありがとうございます」

老婆は小さく笑った。

白髪は後ろで雑に束ねられ、皺だらけの顔には年相応の疲れが滲んでいる。だが、その目だけが妙に澄んでいた。

「この辺りはねぇ、地元の人間でも迷いやすいんだよ。困ったときはお互い様さ」

そう言いながら、囲炉裏に薪をくべる。火の粉が舞い上がり、一瞬、老婆の顔を赤く染めた。

「しかし、兄さんも不用心だ。そんな軽装で山に入るなんて、山を舐めすぎだよ」

「面目ないです。ここ、栗やら、場合によっては松茸なんかも採れるって聞いたもので……」

黒井は苦笑しながら肩をすくめた。

「最近はそういう若者が多いんだ」

老婆は火を見つめたまま言った。声に、わずかな棘があった。

「山には山のルールがある。安易に入っちゃいけないし、安易にそこに自生してるものを採っちゃいけない」

「……本当に反省してます。次からは気を付けますよ」

老婆は何も言わず、ただ火を見つめていた。炎に照らされた横顔は、何かを待っているようにも見えた。

「もう暗い。今日は泊まっていきな。明日の朝、麓の道まで案内するよ」

「何から何まで、すみません」

黒井は、心から安堵したように礼を言った。

老婆は、またあの小さな笑みを浮かべた。

深夜。

ふと、黒井は目を覚ました。

何かが――胸騒ぎがした。

スマートフォンを手に取る。画面には、相変わらずの圏外表示。時刻は午前一時。

喉が渇き、トイレに行こうと布団を抜け出した、その時だった。

――シャ……シャ……

金属を擦るような、不快な音。

規則的で、執拗な音。

音は、囲炉裏のある居間から聞こえてくる。

(……こんな時間に?)

足音を殺し、そっと覗き込む。

囲炉裏の前に、老婆が座っていた。

包丁を、研いでいる。

ぎらり、と刃が火に照らされる。研がれた刃は、異様なほど鋭く光っていた。

「……今日来た若造は、美味そうだ」

老婆は、独り言のように呟いた。

声は、昼間とは違う。低く、粘つくような響き。

「この前の若造は、不味くて食えたもんじゃなかった。肉が硬くてねぇ」

背筋が、凍りついた。

思わず後ずさり――足がもつれ、スマートフォンを落とす。

乾いた音が、静寂を裂いた。

老婆が、ゆっくりとこちらを向いた。

その顔に、笑みはなかった。

黒井は弾かれたように駆け出した。

玄関へ。

戸を蹴破り、靴も履かず外へ飛び出す。

冷たい夜気が肌を刺す。

――しかし。

襟首を掴まれ、地面に引き倒された。

(速い……!)

大人の男を、片手で。

視界に映るのは、大きな包丁を逆手に構える老婆。

老いた筈の体から発せられる、尋常ではない殺気。

本当に、老婆なのか。

咄嗟に首と顔を庇う。

包丁が振り上げられる。

――次の瞬間。

疾風。

鈍い衝撃音。

恐る恐る目を開けると、老婆の姿はなかった。

三メートルほど先に、倒れている。

そこに立っていたのは、パーカーにジーパン姿の少女。

片足を引いた、残心の構え。

「……はぁ、間に合った」

紫だった。

「相手は得物持っとるんやぞ。慎重にいけや」

煙草を咥え、悠然と歩いてくる男――奥川雅也。

「えー、だってもうちょっとで刺されそうだったし」

「こいつが一度や二度刺されたくらいで、くたばるタマちゃうわ」

「ひどいなぁ。遅いですよ、もう少しで刺されるところだったじゃないですか」

黒井――いや、神代は立ち上がり、苦笑する。

「どうせその服、全身防刃やろ。首と顔、ちゃんと守っとった」

「あっ、バレてました?」

神代は、いたずらっぽく笑った。

雅也は倒れた老婆に近づく。

「……あ゛あ゛あ゛」

立ち上がろうとする顔面に、容赦なく蹴りを叩き込む。

鼻の骨が折れる音がした。

「おとなしく寝とけ」

包丁を拾い上げた瞬間、神代が手を上げる。

どこからともなく、黒服の男たちが現れ、老婆を拘束した。

神代は、老婆の前にしゃがみ込む。

笑顔のまま、低く語りかけた。

「おい、婆さん……いや、その動きと皮膚の感じ。薬品か何かで、老婆に見せてるな。年齢は40ってとこか」

老婆は、黙ったまま。

「最近、若い男を一人殺したな」

神代の笑顔が、消える。

「……そいつは、俺の舎弟でね。いい奴だった」

殺気が、空気を裂く。

「覚悟しろ。ありとあらゆる苦痛を与えて、この世の地獄を見せてから殺してやる」

老婆は悲鳴を上げ、暴れたが、黒服に引きずられていった。

「おー、まだまだ元気。安心しました」

神代は淡々と言った。

「まだ死なれては、困りますからね。助かりましたよ、奥川さん」

「これ、お前らだけでもなんとかなったんとちゃうんかい」

「それがそうもいかなくてこいつも術師の端くれでしてね。万が一があるんで奥川さんらに協力してもらったんですよ」

「臆病な卑屈なお前らしいのう」

煙草の煙を吐きながらうんざりしたように嫌味を言う。

「慎重って言ってくださいよ。命はひとつですよ、雅也さん。じゃあ僕はこれで、今からいろいろ忙しいですから。部下に送らせましょうか?」

「いらんわい。勝手に帰る」

「そうですか。ではまた」

神代は笑みを浮かべながら去っていく。

それを見つめながら、紫が呟く。

「……これって、復讐?」

「ヤクザにはな、面子とかけじめがある」

雅也は煙を吐いた。

「せやけど、今回のは……復讐の部分が大きいやろな。神代は外道やが、身内には甘い」

「復讐って、悪いこと?」

「一概には言えん」

しばらく沈黙し、雅也は続けた。

「やられたからやり返してええわけやない。せやけど……そうせんと前に進めん場合もある」

「……そっか」

紫は、どこか寂しそうに呟いた。

夜は、何事もなかったかのように、さらに深く沈んでいった。

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