蘇りの温泉
その女が突然訪ねてきたのは、夕闇が迫る時間だった。
インターホン越しに映る姿を見て、雅也は小さく眉をひそめる。見覚えはない。だが、こういう「匂い」の客は嫌な予感がする。
「……どちらさん?」
怪訝そうな顔のまま玄関を開けると、女は深く頭を下げた。
「突然すみません。私、滝原舞と申します。怪異に関する相談を聞いてくださる方がいると聞いて……」
「まぁここではなんや、入りや」
靴を脱がせ、リビングに通しながら短く話しかける。
「誰の紹介や」
女の前にコーヒーを置き、雅也は煙草を取り出した。
「新堂という男の名前をご存じですか」
その名を聞いた瞬間、雅也の手が止まる。
「……あいつ、まだ生きとるんかい」
「分かりません。ある日突然『俺のことは忘れろ』って連絡が来て以来、音沙汰がなくて……」
舞は唇を噛んだ。
「あの人は、殺されたんですか?」
「分からん。柄を躱したか、殺されたか……俺も知らん。あんた新堂の女か」
「まぁそんなとこです。私が一方的に世話焼いてただけであの人は迷惑だったかもですが」
舞は視線を落とし、苦笑にも似た表情を浮かべた。
「あの人、あなたのこと、すごく慕ってました。兄貴はすごいって、バカみたいに……」
煙草に火をつける雅也の横顔に、一瞬だけ苦悶が走る。
「……しゃあないな。話だけ聞いたるわ」
舞は意を決したように切り出した。
「"蘇りの温泉"っていう場所が、山の中にあるそうなんです。そこに行けば、亡くなった人に会えるって……」
「アホ言うな」
即座に切り捨てる雅也の隣で、紫が目を輝かせる。
「えー、面白そうじゃん」
「お前みたいなんが詐欺に引っかかるねん。そういう話は大概ガセか、罠や」
「でも……」
舞は必死の色を浮かべた。
「絶対ないとは言い切れないんじゃないですか」
「……まぁ、この世では不思議な事や奇跡はある。絶対ないとは言い切れんけどな」
雅也は煙を吐き出す。
「せやから余計、行くのは勧めん。大体はろくな事にならん事が多いんや、その手の話は」
舞は深々と頭を下げた。
「だからこそ、同行して欲しいんです」
しばし、睨み合う沈黙。
やがて雅也はため息をつき、立ち上がった。
「ここで断っても、勝手に行きそうやな……。しゃあない」
「やっぱり先生って優しいよね」
紫が嬉しそうに笑う。雅也は舌打ちした。
「新堂の件は、俺にも責任がある。それに、このままこの女まで消息不明になったら、寝覚めが悪いだけや」
後日、三人は山中を歩いていた。
「結構歩きにくいね」
「けもの道や。滑落せんよう気ぃつけぇ」
足元の悪い獣道を進むこと小一時間。木々の隙間から、不意に視界が開けた。
立ち上る湯気とともに、思いのほか大きな温泉が姿を現す。乳白色の湯が静かに湛えられ、周囲には硫黄の匂いが漂っていた。
「ほう……案外あっさり見つかったな」
「わー、ちゃんとした温泉だ。先生、一緒に入る?」
「こんな妙なとこにある妙な噂のある温泉に入る勇気があるならな。俺は遠慮しとくわ」
そのとき、舞が小さく呟いた。
「……司」
温泉の中央に、人影が立っていた。湯気を纏い現れたのは、金髪の若い男――新堂司。
「司……!」
舞は泣き崩れながら、ふらふらと近づこうとする。
「待てや!」
雅也が腕を掴む。
「あれは新堂ちゃう。紫、石投げろ」
「オッケー」
投げられた石は、新堂の身体をすり抜け、幻影は煙のように崩れた。
「……黄泉ヶ淵やな」
雅也は低く言った。
「獲物の思考を読んで、今一番会いたい人物を具現化する。疑似餌で人を誘い込んで、食う沼や。これはその亜種や」
舞は膝から崩れ落ちる。
その瞬間、雅也の脳裏に一つの思いがよぎった。
――もし、ここで念じたら。
再び湯の中に影が立つ。現れたのは、長い黒髪の少女だった。
「……みこと」
無意識に足が前へ出る。あの笑顔。あの声。もう一度――
「先生!」
紫の鉤突きが脇腹に叩き込まれ、激痛で我に返る。
「ぐっ……しもた。俺としたことが魔が差した。幻想に囚われとった」
「大丈夫? 先生しっかりしてよ」
「助かったわ……」
雅也は顔を歪める。
「せやけど加減せぇ。折れとるぞこれ」
「そんな余裕なかったよ。それより、これどうすんの?」
「どうしようもない。後で静に頼んで人払いの結界でも張るしか――」
ふと気が付くと周囲に滝原 舞がいない。温泉の方へ視線を走らせるとそこには幻の新堂と抱き合う滝原 舞の姿があった。
「何しとるんや……!」
次の瞬間、舞の身体は沼に引きずり込まれた。音もなく、水面が彼女を飲み込む。吸い込まれる瞬間の彼女は笑っているように見えた。
「あかん!」
紫を引き寄せ、後退する雅也。沼からはこの世のものとは思えない悲鳴のような音が聞こえた。
「先生、滝原さんが……!」
「もう手遅れや。これ以上近づいたら、俺らも喰われる」
「正体も分かってたのに、なんで……」
「人はな、理屈じゃどうにもならん感情がある」
雅也は吐き捨てるように言った。
「その感情を利用する怪異や。黄泉ヶ淵は……そういう怪異や」
湯面は何事もなかったかのように、静かに揺れている。
雅也の横顔は、怒りとも悲しみとも、悔恨ともつかない複雑な色を帯びていた。自分も一歩間違えば、あの女と同じ運命だった。
紫は、ただ黙ってそれを見つめることしかできなかった。
山に夕闇が降りはじめていた。




