赤い靴の夜
雅也の家を出て、桃花は夜道を一人歩いていた。
街灯の少ない住宅街は、昼間とはまるで別の顔を見せる。足音がやけに大きく響き、背後に誰かいるような錯覚に何度も振り返った。
――その時だった。
♪ あかい くつ はいてた おんなのこ――
どこからともなく、か細い歌声が聞こえてくる。
「……っ」
桃花は思わず立ち止まり、息を呑んだ。聞き覚えのある童謡。だが、テンポが妙に遅く、音程も歪んでいる。まるで壊れたオルゴールのように。そういえば今日、私は赤いスニーカーを履いている。
♪ いじんさんに つれられて――
「……や、やめて……」
声が震える。足を速めようとした瞬間――前方の闇が、動いた。
現れたのは、大柄な男。
全身を包帯でぐるぐる巻きにし、顔も判別できない。その手には、月明かりを鈍く反射する斧。
歌声は、男の喉から漏れていた。
「……っ!!」
桃花は悲鳴を噛み殺し、踵を返して走った。
――雅也さんの家。
頭に浮かんだのは、それだけだった。ものすごい勢いで走り、転びそうになりながら、やっと玄関前に辿り着く。
「お願いします! お願いしますっ!」
チャイムを、壊れるほど連打する。心臓が口から飛び出しそうだ。
ガチャリ、と引き戸が開いた。
「……やっぱりな」
呆れたような雅也の声。
「ごめんなさい……! お願いします……!」
涙声の桃花を一瞥し、雅也は深々とため息をついた。
「そうなことやと思たわ。だから送ったる言うたんや」
「いつも送られてばかりで悪いと思ったの。悪い?」
「いや、悪うない。どっかの誰かに垢を煎じて飲ませたいくらいや」
その瞬間、背後から重い足音。ズル……ズル……と、何かを引きずる音。
包帯の男が、斧を地面に擦りながら近づいてくる。
雅也は口にくわえた煙草を取り、無造作に男へ投げつけた。火のついた方が男に当たるも――火は、つかない。
「……ちっ。実体かい」
そう吐き捨てると同時に、引き戸を閉め、鍵をかける。
直後――
ドンッ!!
斧の一閃で、引き戸が木っ端微塵に吹き飛んだ。
「行くぞ!」
雅也は桃花の手を掴み、家の奥へ引きずるように走る。リビングのドアを閉めた瞬間、階段から足音が響いた。
「先生!? 今の音、何!?」
紫が二階から駆け下りてきた。
「厄介事や。ほんま、お前ら次から次へといろんなもん招きおる」
雅也は煙草に火をつけながら、冷静に状況を見渡す。
「……あれ、何なんですか……?」
混乱する桃花に、雅也は短く答えた。
「分からん。火が効かんかった。つまり実体や。生きた人間の可能性が高い」
「じゃあ……ただの通り魔?」
「せやったら助かるんやけどな」
桃花は、はっと顔を上げる。
「で、でも……この家、廊下は無限回廊ですよね? 普通の人間なら迷うはず……」
「相手が"普通"やったらな」
その瞬間。
♪ あかい くつ はいてた――
家中に、呪詛のように歌が響き渡る。音源が特定できない。まるで壁そのものが歌っているかのように。
ドン!!
リビングのドアに斧が叩き込まれ、ひしゃげて開いた。
「……通じひんか」
雅也は先程台所から持ってきた銃を構える。
「紫。桃花。庭に出てろ」
その声の厳しさに、紫は即座に頷いた。
包帯の男は躊躇なく間合いを詰め、斧を高々と振りかぶる。
轟音が二発、発砲音が夜気を裂く。
胸に二発。包帯の男は後づさると壁にもたれるようにゆっくりと座るように倒れる。
「やったの!? 先生!」
「銃?正気!?」
「……まだや。そこにおれ」
雅也は慎重に近づく。銃口を下ろさないまま。
男は倒れたまま、まだ呟いていた。
♪ あかい くつ――
雅也は迷わず、頭部を撃ち抜いた。
桃花が悲鳴を上げる。
「そ、そこまでしなくても……!」
「こいつはまともやない――」
そう言いかけた瞬間。
――包帯の男が、動いた。
斧が閃光のように閃き、雅也の胴に深々と食い込む。
「――っ!!」
鮮血が飛び散る。雅也は膝から崩れ落ちた。
「先生!!」
紫の叫び。桃花は声も出ず、立ち尽くす。
包帯の男は再び歌いながら、ゆっくりと紫たちへ向かう。
「離せ!! 先生が!!」
「ダメ!! 一緒に逃げて!!」
桃花の手を振りほどき、紫は雅也の元へ走り出した。
――その瞬間。
世界が、ガラスのように割れて見えた。
次の瞬間、紫の視界に映ったのは――雅也が、何事もなかったかのように背後から包帯の男の首を絞め上げている姿だった。
「……なるほどのう」
憤怒の形相で、雅也が低く呟く。
「お前、その歌うとる間だけ無敵なんやな。逆に言えば――」
バキッ。
鈍い音が夜に響く。
首が、ありえない角度に折れた。
包帯の男は崩れ落ちた。歌は、途切れた。
同時に、雅也も膝をつく。
「先生!!大丈夫?」
「大丈夫なことあるかい……あー、しんど」
煙草を取り出し、震える手で火をつける。
「死体は……しゃあない。神代に頼むか。クソが」
「先生、傷……!」
紫が駆け寄る。だが雅也は煙草を吹かしながら、軽く手を振った。
「傷? 殴られただけや。シップでも貼っとけば……」
紫は雅也の腹を見る、しかし、そこにはさっきあったはずの傷が跡形もなく消えていた。斧傷がない。服に血痕すらない。
「……紫、お前まさか……」
雅也が驚愕の表情で紫を見る。
紫は言葉を失う。
「……先生、さっき確かに……ねぇ桃花」
振り返ると、桃花は泣きながら地面に蹲っていた。
「桃花……しっかりして、もう大丈夫だから」
紫が優しく声をかける。
夜は、さらに深く、重く沈んでいった。
庭に転がる包帯の死体と、消えない歌の残響だけを残して。




