旧校舎の怪
翌朝。
雅也の家の玄関はいつになく静まり返っていた。
ピンポーン。
チャイムが響く。雅也は深い溜息をつき、スリッパを引きずりながら玄関へ向かった。
ドアを開けると――
「……またお前かい」
「先日のお礼を言いに来ただけです。普通でしょう?」
きっちり制服を着こなした桃花が、高級そうな紙袋を胸に抱えて立っていた。その姿勢の良さが妙に場違いで、雅也は思わず目を細める。
「律儀にもほどがあるわ……。まあええ、入れ」
「失礼します」
靴を揃えて上がってくる桃花を横目に、雅也はキッチンへ向かう。
「コーヒー、飲めるか?」
「いただきます」
無駄に姿勢の良い返答に、雅也は再び溜息をついた。
リビングでは、紫がソファに寝転がったままスマホをいじっていた。
「……桃花、また来たの?」
「"また"って何よ。昨日の件のお礼に来ただけでしょ」
「ふうん、律儀だね……」
毒づく紫の横で、雅也がコーヒーカップを二つ置く。
「で? お礼だけか」
桃花はコーヒーに手を伸ばし、そこでふと真剣な表情になった。
「――いえ。実は……別件で相談があって」
「ほう」雅也が椅子に腰かける。
「なんや、恋愛相談か?」
「そんなわけないでしょ!」桃花が顔を赤くする。
「……学校の、旧校舎の話です」
紫が顔を上げた。
「また怪談? あんた、そういうの苦手なんじゃなかった?」
「苦手よ。だから相談してるの」
桃花は息を整え、続けた。
「旧校舎って、もう何年も完全に封鎖されてるはずなのに……先日、私……そこで女生徒みたいな人影を見たの。窓の向こうに」
紫の指が止まる。
雅也は黙って聞いていたが、その顔がわずかに曇った。
「見間違いやなく、霊として"認識した"んやな?」
桃花は無言で頷く。その唇が震えていた。
「……なんで、そんなことになるんですか」
「一度でも"霊をハッキリ認識"してもうたらな、今まで見えんかったもんが見えるようになることがある」
桃花の顔から血の気が引いた。
「ちょっと待って……それって、ずっと……?」
「まあ、霊視の強度にもよるけどな。後で霊視を弱める点眼薬をやるわ。まぁ対症療法やけどとりあえずは」
「助かります。でもどうしてもそれから旧校舎の方を見てしまって……」
「その幽霊を見てしまうと」
「とにかく……旧校舎の幽霊、なんとかしてほしいんです。本校舎から窓越しに見えるし……どうしても意識しちゃうから」
紫はきょとんとした。
「え……実害ないのに怖いの?」
「普通は怖いのよ! あんたたちがおかしいの!」
「幽霊や怪異は"見えるだけで怖い"もんなんや。俺らが慣れすぎてるだけや」
「ふーん……」
まったく腑に落ちていない顔の紫に、桃花は絶望したように溜息をついた。
雅也は頭をかきながら言う。
「……しゃあない。菓子折りの礼や思って、引き受けたるわ」
桃花の顔がぱっと明るくなる。
「ほ、本当ですか!」
「まぁここまで来たらついでやろ。メンドいけどな」
そして深夜。
旧校舎前。
月明かりの下に、三人が並んで立っていた。
雅也が振り返って怒鳴る。
「なんでついてきてんねん、お前ら!」
「ヤクザを学校の敷地内で野放しにするわけないでしょ」
桃花は腕を組んで言い切る。
「先生と桃花を深夜の学校で二人っきり……? ありえないでしょ」
紫が当然のように言う。
「好きにせえや……」
雅也はあきらめる。
旧校舎の入り口まで歩き、しゃがみこむ。鍵穴をなにやら特殊なツールのような物でいじる。
「ほれ」
カチ、コトン。
「……ピッキングで開けないで!!」
桃花が小声でツッコむ。
「うっさい。鍵取りに行く方が手間や」
「さすが反社……」
「まじで帰れよ。お前ら」
旧校舎内部。
一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。雅也はすぐに立ち止まる。
「……これは、妙やな」
「やっぱり怖い……」
桃花が雅也の背中に張り付く。
「どこで見たんや」
「えっと、この廊下を曲がって……あの壁のあたり」
雅也は指さされた壁に近づき、手を伸ばす。
――すっ。
「は?」
手が、壁に吸い込まれた。
「いやいやいやいや!!」
桃花の悲鳴。
紫も目を丸くする。
「何これ、トリックアート?」
「ようできとるのう」
雅也が振り返る。
「全員、気ぃつけてついてこい」
雅也が先に"壁の向こう"へ入る。
紫、桃花も恐る恐る続いて抜けた。
その瞬間――
そこは見知らぬ廊下だった。
薄暗い電灯、古い木材の匂い、そして異様な静けさ。
そして。
廊下の真ん中に、パジャマ姿の少女が立っていた。
長い髪を揺らし、無邪気な笑顔。
「――こんな時間に来客とは珍しいわね」
謎の少女は、にっこりと微笑んだ。
「……誰やこいつ」
旧校舎の奥、現れたパジャマ姿の少女を前に、雅也は思わず眉をひそめた。
桃花は、明らかに"見たくなかった顔"をしていた。
少女は長い袖を揺らしながら、にこやかに会釈する。
「民俗学研究部部長、根地夕子。以後お見知りおきを」
「根地先輩……なんでこんな所に……」
桃花が呆然と呟く。
「ここは民俗学研究部の部室でね」
夕子が楽しそうに説明する。
「今日は帰るのが面倒だったから泊まってるのさ。もちろん学校側の了承済みで。それを言うなら君こそどうしてここに? 立入禁止だろう?」
「い、いや……ここで人影を頻繁に見たので……気になって……」
どこか気まずそうに桃花が答える。
夕子はくすりと笑った。
「私を幽霊だと思ったのか。馬鹿だな。残念ながら生身の人間だよ」
そして、紫に視線を移す。
「で、そちらは確か……藤乃さんだったかな? 停学は解けたの?」
「停学?」
雅也が眉をひそめる。
紫は、今まで見たことがないほど殺気立った顔で夕子を睨みつけていた。
夕子は肩をすくめる。
「おー怖い怖い。言わないよ、ね?」
場の空気が一瞬で張り詰める。
その緊張を破ったのは、夕子の軽い声だった。
「で、もう一人は完全に初対面だね」
夕子が雅也を見る。
「ただ者じゃない。目つきと雰囲気で分かる。その筋のプロだろう? ……君が主導か」
「そんな大層なもんちゃう。けど……お前も術師か?」
「私のは付け焼き刃の真似事さ。君のようにはいかないよ」
「どうでもええ。これで分かったやろ? 幽霊の正体見たり、や。帰るで」
雅也が踵を返そうとすると、
「待ちなよ。君の名刺をくれないか、奥川さん」
という夕子の悪戯っぽい笑み。
「……悪いな、今切らしとる」
「ふっ、つれないな。じゃあ私の名刺を渡しておこう。なにかあったら連絡をくれ。私は役に立つよ」
差し出された名刺は、名前・電話番号・メールアドレスだけが印刷された簡素なものだった。
雅也は無言で受け取り、そのまま歩き出す。
桃花と紫も続く。
その背に、夕子の声が届いた。
「――藤乃さん」
紫の足が止まる。
「そこは、あなたの居場所じゃないよ」
一瞬の静寂。
次の瞬間、紫の身体が跳ねた。
無言で夕子に飛びかかり、拳を振り上げる。
しかし――
「っ!」
どこからともなく現れた男子生徒が、その拳を手のひらで受け止めていた。
「遅いぞ、夏樹」
夕子が楽しげに言う。
「……殴られた方がよかったのでは?」
夏樹と呼ばれた男子生徒は淡々と返す。
「冗談だよ」
紫はさらに夏樹へ殴りかかった。
「好き勝手ぺらぺらと……ッ!」
「やめとけや、紫!」
雅也が紫の身体を引き離す。
紫は悔しさと怒りで震えながら、今にも泣き出しそうな顔で雅也を見上げた。
「せん……せ……」
「なんも言わんでええ」
雅也が静かに言う。
「俺はお前がいなくなるまで、隣におる。それでええやろ」
堪えきれなくなった紫が、雅也に抱きついて泣き出す。
雅也はその頭に手を置いたまま、夕子に低い声で言った。
「……それと根地さんやったか。紫に次ちょっかいかけたら、あんたでも容赦せん」
「なんならここで決着つけましょうか」
夏樹が一歩前に出る。
しかし夕子は手を振った。
「いい、いい。今回は私が全面的に悪い。久々に面白そうな面子でね、ちょけてしまった。悪い癖だ」
雅也は紫を抱えたまま無言で背を向け、三人は旧校舎を後にした。
夕子はふあ、と欠伸をしてパジャマの袖を揺らす。
「私は寝るぞ。夜更かしはお肌の大敵だ」
「……俺も帰ります。明日も学校なのに遅くなった」
夏樹も肩を回しながら出ていく。
「……あのヤクザに勝てるか?」
夕子が背中に向けて声をかける。
夏樹は振り向かず答えた。
「平地で素手なら。でも、彼は武道家じゃない。躊躇なく武器を使うでしょう。そうなると……」
「勝てない?」
夕子が面白そうに目を細める。
「勝ちますよ」夏樹が静かに言う。
「……じゃなきゃ、ここに僕がいる意味がない」
「気負うな気負うな。彼は味方だよ。――私の勘ではな」
夕子は薄暗い廊下を見渡し、薄く笑った。
「面白くなりそうだ」




