幕間 影の座標
応接室の空気は、冬の水槽のように冷たく澄んでいた。
灰羽組本部の奥――普段は会合に使われる和室に、雅也は静かに座っている。
「……久しぶりやな、雅也」
正面に座る榊組長が、湯呑を静かに置きながら言った。声音は穏やかだが、その奥に鉄の重さがあった。
「すんません。本当は、もっと早う顔を出さなあかんかったんですが……」
「いちいち来んでええ。破門された組員にちょろちょろ事務所出入りされる方が迷惑や。」
榊の言葉に、雅也は小さく頭を下げる。
「――今回の鬼神会の件、俺のせいで迷惑かけました」
「静から聞いとる。だいたいの流れもな。鬼神会の組長とは昔からの知り合いや。しばらくは穏便に済むやろ。とはいえ、鬼神会にも面子がある。絶対やない。警戒はしとけ」
榊の声は落ち着いていたが、その目は笑っていない。
「ただな……厄介なんは、なんで鬼神会が動いたかや」
雅也の背に、かすかな冷気が走る。
「どこかの奴が鬼神会を駒に使った。そう考える方が自然や」
榊は茶の湯気を見つめたまま続けた。
「鬼神会に最近、妙な連中が出入りしとるらしい。それと関係あるかは分からんが――仙道のソープの件、覚えとるな。あの術師、仙道だけやなく鬼神会のシノギにも女を流しとったらしい。お前らが術師を消したせいで、鬼神会の商売が潰れた」
「……そう繋がるわけですか。どこまで仕込みなんやろ」
「さぁな。仙道の仕込みかもしれんし、別の筋が動いたのかもしれん」
榊の声音が少し低くなる。
「今回の襲撃も、“灰羽組が先に因縁つけた”っちゅう名目に使われた。今どき抗争にはならんが、うちと鬼神会の間に確かな火種は残った」
雅也は静かに息を吐いた。
「……いざとなったら、ケジメは自分でつけます」
最悪の場合、自分の首を差し出さなければ収まらない展開もある。
榊は湯呑を置き、雅也をまっすぐ見据えた。
「アホ言うな。――間違っても早まるなや。今どきのヤクザは金で動く。お前の首なんぞ、値打ちにならん」
その声は静かだったが、刃のように鋭い警告だった。
「……分かってます。でも」
「“でも”も“へったくれ”もあるかい。お前にはお前の役割がある。それを全うせぇ」
「すんません。世話かけます」
雅也が頭を下げると、部屋の空気がほんのわずかに緩んだ。
束の間の沈黙が流れる。
同じ夜。どこかの薄暗いホテルの一室。
窓もない一室で、ふたりの男が低い声で会話していた。
「……厄介な男やな、奥川雅也ってのは」
「なら、さっさと殺りゃええでしょうが。破門ヤクザ一匹、弾けば済む話でしょ」
男は笑うでもなく、相手を見た。
「殺せるなら、とっくに殺しとる。だから“厄介”なんや」
「噂の“厄女”のせいですか? 奥川に手を出した奴が変死したり、行方不明になったりっていう、あの話」
「それもある。が――もっと厄介なもんがある」
男は椅子に深く座り直し、薄く笑う。
「奥川はな、二度“致命傷”を負っとる。どっちも生還しとる上に、殺した相手は全員行方不明や」
「……面白い冗談っすね」
「俺は冗談が嫌いや」
部屋の空気が一瞬、重く沈んだ。
「とにかく情報や。奴はいま“トラブルバスター”みたいな真似をしとる。そのうち正体が掴める」
「気の長い話ですね……」
「急ぐ話でもない。ゆっくりやる」
不満げな相手を指で制する。
「手を出すのは止めん。ただし――気ぃつけろ。奥川はともかく、“厄女”に目をつけられたら……俺でも助けられん」
「そんなに?」
「頭おかしいレベルや。一晩で組員全員が行方不明になったなんて話もある」
「まるでおとぎ話ですね。そのうちお菓子の家でも出てくるんじゃないですか」
「そう思うなら、それでええ」
男は立ち上がり、背を向けた。
「信じんでもええ。ただ――“世界にはそういう側面がある”くらいに思っとけ」
「へいへい。じゃ、静観ってことで。俺は帰りますよ」
扉が閉まったあとも、部屋にはしばらく、殺気のようなものが残っていた。




