夏宵 面霊気の罠
提灯の明かりが夏の夜を染める。焼きとうもろこしの香ばしさと、綿あめの甘ったるい匂いが入り混じった。
「うわっ、りんご飴! 先生、見て見て!」
紫が屋台の間を駆けながら、浴衣の袖を翻す。藍地に白い花模様。髪は静に結ってもらい、いつものTシャツ、短パン姿が嘘のようだ。
「……はしゃぎすぎや」
煙草をくわえた雅也が、人混みの後ろをのそのそと歩く。
「珍しいな。雅也さんが自分から誘うなんて」
静が涼しげに笑う。薄紫の浴衣が、普段の彼女より柔らかい印象を与えている。
「ちゃうわ。紫が浴衣着たい言うからや。俺は着付けできん。それに人だらけでかなわんわ」
「ふぅん。そない言うけど、まんざらでもなさそうやん」
「うるさいわ」
軽口を叩き合いながら歩いていく。
――だが、突如、空気が変わった。
ざり。砂利を踏む音が、四方から響く。仮面を被った連中が、じりじりと距離を詰めていた。古びた能面、歪んだ鬼の面。どれも禍々しく、不気味だ。
「……なんやねん、お面パーティーか?」
雅也が煙草を指で弾く。一人が前に出た。
「奥川雅也やな。ちょっと顔、貸してもらおか」
低い声。殺気がある。
「ほぉ。なかなか強引なお誘いやないか。どこの組や?」
「どこでもええやろ。ここで始めてもええんやぞ」
周囲の人々が気配を察して、じりじりと離れていく。子供の泣き声が遠くで響いた。
「こんなとこでやったら堅気の人に迷惑かかるがな。しゃあない、付き合ったるわ」
雅也の目が鋭く光った。
「静、紫。お前ら先行っとけ」
「雅也さん……」
「先生、私も……」
「ええから行け」
有無を言わさぬ口調だった。静は紫の肩を押して、雅也から離れる。振り返る紫の目に、不安の色が浮かんでいた。
雅也は境内の奥、灯籠の影へと足を進める。月明かりが仮面の群れを照らし、ざわりと風が吹いた。
「この辺でええやろ――」
雅也が口の端を上げる。
「来いや」
次の瞬間、数人が一斉に飛びかかった。
だが、遅い。
雅也の拳が一閃し、最初の男の顔面を捉える。鈍い音。足払いと同時に鳩尾へ拳を突き込み、回し蹴りで背後の男の顔面を薙ぎ、意識を吹き飛ばす。一撃、また一撃。仮面が砕け、男たちが次々と地に転がった。
「弱いのぉ……。俺に喧嘩で勝つには十年早いわ」
息を吐いた雅也の前で、神社の社殿の扉がぎぃと開いた。
奥から、異様な面をつけた男が現れる。鬼の面――いや、纏っているのは本物の"気"だ。人のものではない、禍々しい殺気が空気を震わせている。
「お前が親玉か」
返事はない。
男の影がぬるりと動いた。異様な力で地面が軋む。ゆっくりと歩み、雅也の前に対峙する。
雅也が身構えた――その瞬間。
男の動きがピタリと止まる。動こうとしても動かないようでまるで見えない何かに縛られているようだった。
背後から地面を裂くような音が響き、紫が境内の下から飛び出してきた。
「先生! 危ない!」
紫の拳が、鬼面の脇腹に深々とめり込む。男が苦悶の声を上げて体を翻した瞬間、目にも留まらぬ正中線への五連撃。男の身体がよろめき、そのまま崩れ落ちた。
「は、はぁ!? なんやお前……!」
「え、あの、なんか、見てるだけのつもりだったんだけど、つい……」
「まったく。せっかく可愛う着付けたのに、浴衣がわややん」
どこからともなく静が現れ、呆れたように言った。
「お前らなぁ……!」
雅也は頭を抱える。
「かっこつけてお前ら帰らせたのに、締まらんがな!」
静が倒れた男の面を剥ぐ。現れた顔を見て、彼女と雅也の表情が一変した。
「おい、こいつは……」
「この顔、見覚えあるわ。鬼神会の若頭、牛頭やな」
雅也の眉がぴくりと動く。
鬼神会――本家筋にあたる大組織。その若頭が、仮面を被ってこんな喧嘩をふっかけてきた。意味がわからない。
「つまり……」
「おそらくやけど、何者かが鬼神会の若頭とその組員に面霊気――人を意のままに操る仮面をつけ、雅也さんを襲わせた。灰羽組を嵌めるためやね」
静の声が低くなる。
「雅也はんに手ぇ出さして、あわよくば"元灰羽組の組員、鬼神会の若頭殺害"って筋書きにするつもりやったんや。ところが通りすがりの女子高生にのされたとあっては、さすがに公には出来んやろ」
「静さん、私一応高校生なんですけど……」
「あら、堪忍な。こんな可愛くてお人形さんみたいやから、つい中学生に見えてもうたわ」
静がどさくさに紛れて紫に抱き着こうとするも、するりと逃げられる。
「めんどくさいのぉ……」
雅也は煙草をくわえ直した。面霊気のような珍しいものを使うとなると、呪術に精通している人間が犯人だろう。この前のソープの一件もそうだが、どうもきな臭い。遠くで花火の音が鳴り始める。
「とりあえず、この件は榊はんに報告するわ。牛頭をのしたのは紫ちゃんやけど、他の組員は雅也はんがぼろにしてるし。鬼神会とも話つけてもらわな」
静の声は静かだったが、その奥に冷たい怒りがあった。
「まぁ、そうなるわな。また組長に面倒かけてまうのぉ」
雅也は空を見上げる。夜空に咲く花火の光が、紫と静の横顔を照らした。
「……ま、考えてもしゃあない」
雅也が肩をすくめる。
「あら、花火始まってまうわ」
紫が小さく頷く。静もふっと笑って、夜空を見上げた。
ぱぁん、と一際大きな花火が上がる。
その音にかき消されるように、雅也は呟いた。
「――誰や、俺を嵌めようとしとるんは」
煙が、夜空へと溶けていった。




